クラマーコーチと大和魂 メキシコ五輪日本代表


 「私は、このように全員が持てる力を全て出し尽くしたのを見たことがない」。1968年10月24日、国際サッカー連盟(FIFA)から派遣されメキシコ五輪を視察したデットマール・クラマー氏は、地元メキシコを破って銅メダルを獲得した日本の教え子たちに、胸を熱くした。ピッチでは歓喜に躍動した選手たちだったが、宿舎に戻ると全員がベッドに倒れこんで動けない。水さえ飲めないまま寝入った。戦い抜いた姿にクラマー氏は涙した。
 さかのぼること8年。東京五輪を4年後に控えた1960年10月29日、クラマー氏はドイツから来日し、日本代表コーチに就任する。当時の日本はインド、香港、フィリピンにも勝てずアジアでも下から数えた方が早いサッカー弱小国だった。リフティングも満足にできない選手たちに、クラマーコーチは基本を叩き込む。だが、それだけではなかった。
 「ドイツにはゲルマン魂がある。君たち日本人にも素晴らしい大和魂があるじゃないか。私に君たちの大和魂をみせてくれ」
 少しずつ成長した選手たちは、晴れの東京五輪で8強まで勝ち上がる。特に初戦で南米の強豪アルゼンチンを3-2の逆転で破った試合は、選手たちに自信を与えた。東京五輪後、クラマーコーチはドイツに帰ったが、選手たちは「クラマーのために戦う」と4年後のメキシコに目を向け、強化を続けた。メキシコ五輪代表18人のうち14人が東京五輪代表、つまり、ほとんどが「クラマーコーチの教え子」だった。
 日本は強くなっていた。しかしメキシコには五輪直前の強化試合で0-4と敗れている。アステカスタジアムで始まった3位決定戦は、序盤からメキシコペース。それでも、じっくり守ってカウンターという作戦を立てた日本は慌てず、前半17分と39分に杉山隆一→釜本邦茂の黄金のホットラインから2点を奪う。残る時間、日本は全員で守り抜いた。GK横山謙三は、後半開始早々のPKさえ止めている。
 大会後、報告書を作成した代表コーチの岡野俊一郎氏(現・日本サッカー協会名誉会長)は参加16カ国の実力を評価し、「個人技」で日本を最低の75点とした。「まだまだ差をつけられている」。だが「精神力」は優勝したハンガリーと並ぶ100点。「宿舎に戻った選手たちは、口をきくことさえできなかった」と岡野コーチも振り返っている。
 クラマー氏は日本人の見せた大和魂に胸を熱くした。約束を守りぬいた選手たちの心に泣いたのである。7年後の1975年、ドイツの強豪バイエルン・ミュンヘン監督として欧州チャンピオンズカップ(現・欧州チャンピオンズ・リーグ)を制覇したクラマー監督は、「今が人生最高の瞬間ではないですか」と記者に聞かれ、「いいえ」と答えた。「最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときです。私は、あれほど死力を尽くして戦った選手たちを見たことがない」
 FIFAはメキシコ五輪からフェアプレー・トロフィーを設置し、最もフェアな敢闘精神を発揮したチームを称えるようになった。第1回受賞は日本代表。そして、クラマーコーチは「日本サッカーの父」と呼ばれるようになった。=敬称略(風)