次世代に伝えるスポーツ物語一覧

2015-8-7

昭和17年夏、「幻の甲子園」

 「俺も甲子園に出たことがあるんだぞ」―。古豪・水戸商が実に34年ぶりとなる甲子園出場を決めた平成6年夏、大柄の体に人懐っこい笑みをたたえた石井藤吉郎はこう言って、久方ぶりに代表校となった母校への喜びを表した。水戸商から早大に進学後、すぐに応召。敗戦後、シベリア抑留を経て復学し、早大を優勝へと導き、社会人野球や指導者としても活躍した石井。プロ野球界に進んだ教え子たちから「オヤジ」と慕われ、野球殿堂入りも果たした石井が、大型左腕投手として出場した唯一の甲子園が、昭和17年の夏だった。

 高校野球には戦争の影響で空白となった時期がある。地方大会の開幕後に中止となった昭和16年からの5大会だ。しかし、この間にも大会史には刻まれていない「幻の甲子園」があった。それが17年夏、文部省などが主催した「大日本学徒体育振興大会」の1競技として開催された大会だった。戦意高揚が目的とあって「選士」とされた選手は、敢闘精神に反するという理由からボールをよけることは許されなかった。試合中に召集令状が届いたことを知らせるアナウンスも流れたという。それでも球児にとって甲子園は憧れの地であり、晴れの舞台であることに変わりはなかった。16校が出場した、その「もう一つの甲子園」で、徳島商と2回戦で対戦した水戸商は0-1で惜敗。徳島商は続く準決勝も勝ち抜き、決勝では平安中(現龍谷大平安)との延長11回に及ぶ死闘の末にサヨナラ勝ちを収めた。全4試合が1点差という接戦を制しての優勝だった。

 創設100年を迎える平成27年夏の大会は、第97回を数える。この数字に含まれず、大会史に残されなかったものの、あの夏の甲子園の土を踏んだ選手らは、半世紀後の平成4年に「球友会」を結成し、持ち回りで出場校の故郷に集い、旧交を温めてきたと聞く。「俺も甲子園に出たんだぞ」と語った石井も、重苦しい時代に、白球を追い、一投一打に集中できたことをかけがえのないものと捉えていたようだ。しかし、時間の経過とともに16校による“絆”も、選手が次第に少なくなり、いまは活動を止めているという。

 あの夏、徳島商に贈られた賞状と優勝旗は終戦間際の7月の空襲でともに焼失したというが、昭和52年には文部省から徳島商に優勝盾が贈られ、決勝のウイニングボールは甲子園内の甲子園歴史館に展示されている。=敬称略(昌)