斎藤春香氏 講演会 第1回(三回連載)
2009/01/19
去る平成20年12月8日(月)本機構主催の感謝の夕べにて北京オリンピック女子ソフトボール日本代表監督 齋藤春香氏の講演会「北京オリンピックにおける金メダル獲得戦略」のリポートを3回に分けてお届け致します。
司会:山本 浩氏 NHK解説委員室副委員長
講演:斎藤春香氏 北京オリンピック女子ソフトボール日本代表監督
●北京オリンピックでの戦い
山本氏: | 本日は北京オリンピックの戦いぶりを中心に、幼少時代のお話も含めて、講演いただきたいと思います。 |
斎藤氏: | よろしくおねがいします。ご声援ありがとうございました。皆様のおかげで勝利することができました。 |
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山本氏: | ソフトボール決勝戦をライブで見た方はいらっしゃいますか? |
聴講者: | 多数挙手 |
山本氏: | まず、この北京オリンピック決勝戦についてお話を伺いたいと思います。 ピッチャー上野の“マメ”がつぶれているという情報がメディアで発信され、「これはまずいんじゃないか」と心配していました。 |
斎藤氏: | ピッチャーがマメを潰すというのは、本当に大変なことなので、それはもう心配しました。 |
山本氏: | 決勝戦は思い通りのコンディションではなかったのですか? |
斎藤氏: | はい。ドクターやトレーナーと随時意見交換をし合っていました。 |
山本氏: | 上野投手はマメがつぶれたりすることで、くじけたりしてしまう選手なのですか? |
斎藤氏: | いいえ。上野は本当に頑張り屋で、勝負に厳しいんです。だからこそ金メダルが獲れたのだと思っています。 |
山本氏: | マメについては本人から報告があって知ったのですか? |
斎藤氏: | 本人からは報告は一切ありませんでした。トレーナーを通じて知りました。本人に聞くと、「この試合のためにここへ来たんだ」という強い意志がありました。 |
山本氏: | 悲観的な気持ちにはならなかったのですか? |
斎藤氏: | なりませんでした。彼女の精神力の強さと、努力と、周囲の沢山の人々に支えられてここまで来たということを知っていましたので。 |
山本氏: | 決勝戦でピンチを迎えましたね? |
斎藤氏: | アメリカは打撃と攻撃力が素晴らしく、パワーがあるチームです。 |
山本氏: | 日本チームの選手、満塁になっても怖くないと言っていましたよね? |
斎藤氏: | 選手たちは一戦一戦、強い気持ちを込めていましたし、アメリカとの戦いも予想できていました。そのような状況に慣れていたといえます。 |
●好敵手ブストス
山本氏: | 6回、ブストスが出てきましたね? |
斎藤氏: | ブストスはパワーとスピードが凄くて、更に北京五輪では非常に好調だったんです。だから私は敬遠を考えました。しかし、投手の上野に聞かなければいけませんので、「歩かせるか?勝負するか?」と聞きました。最初の一言が大切だと思ったので、歩かせるかということを先に言ったんです。すると、すぐに「歩かせます」と答えました。 その時、素晴らしいなと思ったのは、回りの野手・内野陣が「打たれても絶対に捕るから!絶対に捕るから思い切って投げて!」と上野に声を掛けていた。 監督としては、敬遠してためてから次に備えたかったので、この瞬間にチームに思いを託せました。 |
山本氏: | アメリカとは初戦の予選で負けて、それから決勝で戦っていますが、ここで本当の戦いなんだという計算などはあったのですか? |
斎藤氏: | アテネ五輪のとき、私も選手も最後でアメリカに負けて本当に悔しい思いを経験しました。だから今回の北京五輪では最後の最後で勝って、優勝したかった。そういう思いがありました。 |
山本氏: | あくまでも最後の最後でアメリカに勝つためにやってきたのですね。決勝戦の途中でアメリカに逆転されましたが、そこで気持ちは緩みませんでしたか? |
斎藤氏: | そんなことは関係ありませんでしたね。北京五輪のために、アテネ以降、綿密な計画とトレーニングなど、色々やってきました。ここで力を出すんだという思いでした。 |
山本氏: | 3戦連続、全て上野に投げさせる予定でしたか? |
斎藤氏: | 違います。本当はそのつもりではなくて、第1戦のアメリカ戦で勝ち、その後決勝戦でもう1度アメリカに当たるだろうと予測していたので、その2試合は上野で勝負しようと強気でいました。だから、3連戦投げさせるつもりはなかった。 しかし、オーストラリアは集中力があり、強いチームでした。しかもオリンピックになるとガラッと雰囲気が変わり、全く別のチームのようになったんです。これは簡単に決勝戦に進めないなとは思いました。 |
山本氏: | オーストラリア戦で同点に追いつかれたとき、上野投手がちょっと落胆していましたね? そのような時、ベンチに戻ってきた選手たちに掛ける言葉は非常に難しいのではないですか? |
斎藤氏: | そうですね、あの時はちょっと肩を落としている感じでしたね。 選手全てが揃った時もそんな雰囲気でした。だから、「まだまだこの先がある。これからの試合で力を出すべきなんだ」と言いました。すると選手たちは急に目線をパッと上げ、対策などを出し合っていました。 |
山本氏: | そのときの雰囲気を再現していただけますか? |
会場: | 笑い |
斎藤氏: | 私は女優じゃないので、うまく出来ませんが・・ 「これからなんだ!絶対大丈夫だ!これがソフトボールなんだ!!」と言いました。 |
●幼少時代の斎藤監督
山本氏: | ここで、少し昔に戻ってみたいと思います。 斎藤監督は、青森県津軽で1970年3月15日にお生まれになりました。野球をやっていたのですか? |
斎藤氏: | はい、父の影響で、野球ばかりしていました。甲子園を目指していたんです。 |
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山本氏: | 野球ではなく、女の子がやる他のスポーツがあったのではないですか? |
斎藤氏: | 小学校1年生位から父とキャッチボールをし始めて、楽しいと思いました。父が投げることの楽しさを教えてくれたんです。 |
山本氏: | そうすると、男の子と遊んでいたのですか? |
斎藤氏: | はい、回りはいつも男の子ばかりで、ガキ大将みたいでした。子分もいましたね。 |
山本氏: | 男の子も泣かしたりしましたか? |
斎藤氏: | はい、そんな感じの子でしたね。 |
山本氏: | ソフトボールに転向したのはいつですか? |
斎藤氏: | 中学の時です。本当は野球がしたかったのですが、女子はなかったので、一番近いソフトボールにしました。ソフトボールは「勝ち」を意識してプレーするのですが、それだけではなく、楽しさを学びました。 |
山本氏: | 斎藤監督が12歳のとき、ソフトボールの楽しさを教えてくれるような指導者がいたのですね。 |
斎藤氏: | はい、それでどんどん勝っていました。 ポジションはショートで、4番でした。当時は今とは違い、足が速かったんです。 |
山本氏: | 斎藤監督は右投左打なんです。これは途中で変えたのでしょうか? |
斎藤氏: | 実は左利きなんです。 |
山本氏: | ではどうして右投なんですか? |
斎藤氏: | 当時、巨人の王選手が好きで、いつも1本足を出して投げるマネをしていたんです。王選手は左利きでしたから。最初、私は左投だったのですが、それだと守れるポジションが限られてしまう。そこで父がどのポジションでも対応できるように矯正してくれました。 |
山本氏: | つまり種目転向とも言えますが、当時は種目が限られていますからね。 名選手の影にはやはり名伯楽たるお母さんやお父さんがいるのですね。 |
斎藤氏: | いえ、父はそんなに厳しくはないです。母が厳しかったですね。 |
山本氏: | 中学校では東北大会へ出場しました。勝ち上がるから、楽しくてしょうがなかったでしょう? |
斎藤氏: | はい、決勝で勝てば全国中学へ行けたのですが、そこで負けてしまったんです。 中学生ですから、勉強もあるので、時間の許す限りという感じで練習をしていました。 |
山本氏: | 畳が擦り切れるぐらい素振りをしたりしたんですか? |
斎藤氏: | そうですね・・ |
山本氏: | 当時の女子ソフトボール人口というのはどのようでしたか? |
斎藤氏: | 当時、アニメ「巨人の星」が放映されており、その影響もあって女子のソフトボール人口が多かったですね。今の倍以上です。 |
●高校時代・・名顧問との出会い
山本氏: | そして高校でもソフトを続けたのですか? |
斎藤氏: | 当時は教師を目指しており、文武両道の高校に進みました。 |
山本氏: | 勉強もして、ソフトボールもして、充実した高校時代ですね? |
斎藤氏: | 高校2年のとき、ソフトボールのことを知らない顧問の先生になったんです。その先生は、前の学校の弱小ラグビー部の顧問で、それをたったの3年で全国大会へ行かせたそうです。初日はラガーシャツとラグビーボールを抱えて来たのを覚えています。チームのために私がいる、「All for one, One for all」という精神があった。ソフトの指導経験はないが、分からないなりに気持ちが強い人だった。そういう気持ちの繋がりというようなことは非常に勉強になったと思います。 その先生は、まず選手の気持ちを聞いてくれました。どういう風になりたいか、何をしたら強くなるのか、まず選手から聞いて、それを実践させてくれたんですね。選手主導の形でした。 |
山本氏: | 中学、それから高校でもそうですが、強いチームの監督は「俺について来い」タイプの方が多いような気がします。当時の教師としては珍しいタイプではないですか?選手と同じ目線でいてくれるというような。 |
斎藤氏: | 珍しかったですね。だからやめる選手はいませんでした。常に目標があって、それを達成するような仕組みなので、子供たちが輝いていました。また、納得してやっているという状況でした。 |
山本氏: | そして1987年、沖縄での国体に出場しましたね? |
斎藤氏: | 3位に入賞しました。全国レベルは初めてで、青森でやってきたことが全国で通じたことで自信が生まれた。打率は調子が良くて、8割だったんです! |
山本氏: | その頃は心身共に全てがベストの状態だったということでしょうか? |
斎藤氏: | イメージがよく出来て、それに身体がついていくというような感じでした。 |
以上、斎藤春香監督「北京オリンピックにおける金メダル獲得戦略」第1回リポート
終わりとします。