ベテランジャーナリストはこう見る!一覧

2015-3-13

野球の「激しさと愉快さ」を愛した正岡子規

 春はセンバツから――。今年のセンバツ高校野球出場校で異彩を放っているのが松山東高校(愛媛)である。実に82年ぶりの出場であり、俳人・正岡子規の母校、松山中学の流れを汲んでいること。ご存じのように、子規は「若人のすなる遊びはさはにあれど、ベースボールに如(し)くものはあらじ」「春風やまりを投げたき草の原」などいくつもの句や歌を残した野球大好き人間であった。自分の本名・升(のぼる)をもじって、「の(野)ぼーる(球)」と洒落のめしたこともある。そんな子規さん、もともとは運動好きな少年ではなかったのに、まだ目新しかった舶来スポーツの野球にどんどんとのめり込んだ。その頃―約130年前―の子規さんの熱中ぶりを、「ベースボールに賭けたその生涯」(城井睦夫著)をもとに垣間見ると、それまで遊びらしい遊びがなかった日本の少年にとって「愉快に満ち満ちた遊戯」だった。子供の遊びに指導者がいないように、野球は子供から子供へ、東京から地方へ、たちまちのうちに広まったことがわかる。

 柳沢極堂という学友はある日の子規の様子を語る。

「学校(東大予備門)から帰ってくると室内を騒ぎまわり、あるいは手を挙げて高く飛び上がったり、手をささげて低く体を落とすなどいろいろの格好をするものだから、升さん、君は何の真似をしているのかねと聞くと、これはベースボールという遊戯の球の受け方練習なのだ。とても面白いよ。君、一度学校へ見に来給えなどと言っていた」。

 また

「子規は子供時代に竹刀を持ったこともなく、相撲をとった経験もなかった。ましてつかみ合いの喧嘩など思いもよらない。それがどうして野球に限って(中略)有頂天になったか。まあ奇跡と言ってもいい変態現象であった」

と極言しているのは、俳句で子規の高弟であり、松山中学の後輩でもある河東碧梧桐である。

 後輩から運動嫌いと思われていた子規さん、明治16年に上京してから大変身した。当時、東京・新橋鉄道局の新橋倶楽部が野球熱の熱源であり、鉄道技師・平岡凞(ひろし)が米国仕込みの野球技術を披露していた。以下は東京に嫁いでいた子規の叔母、磯子の話である。

「野球にも凝っていました。新橋の鉄道局あたりにグラウンドがあるとか言って出かけました。主人の謡の友達だったよしみで平岡さんの息子さんと野球をやるようになったらしいのです。今日は練習で遅くなり歩いて帰る暇がない、とよく車賃をねだられました」。

 松山中学に野球を伝えたのは実は碧梧桐のようだ。

「当時まだ第一高等学校(一高、東大予備門の後身)の生徒くらいにしか知られていなかったベースボールを私が習った先生というのが子規であった。私の16歳の夏、当時東京に出ていた兄から、ベースボールという面白い遊びを、帰省した正岡に聞け、球とバットを委託したから、と言ってきた」

「私と子規を結びつけたのは詩でも文学でもない、野球であった」

「球が高く来た時はこうする。低く来たらこうすると物理学みたく野球初歩の説明をされたのが、恐らく子規と私とが話らしい応対をした最初であったろう」。

子規が碧梧桐に教えた野球は、碧梧桐の手で松山中学の高浜虚子らに伝えられ、それからわずか1年の間に松山の中学生の間で盛んに行われるようになったそうだ。

 ところで、子規は野球のどこに惹かれたのか? 子規自ら書いている。現代文に要約すると――。

「日本に遊びは少なく、鬼ごっこ、かくれんぼ、目隠し、相撲、撃剣くらいだ。西洋スポーツは無数にあるとはいっても、スピードが速い遅いを競うだけのものや子供だましも多い。ただ、テニスは勝負も長く、少し興味があるがこれも幼稚で、男子が愉快と言うものではない。愉快と言わせるものはただ一つ、ベースボールである。いくら遊びでも単純だと興味がわかないものだが、その点運動にもなり趣向複雑で面白いのは野球に限る。戦争のように激しいこと、テニスの比ではない。攻め手、守り手、弾丸は縦横無尽に飛び、不意討ち、闇討ち、挟み撃ちあり。これほど愉快に満ちた戦争はない」

と言っている。ベースボールって遊びは、鬼ごっこやかくれんぼなんかよりずっと面白いぜ、というのだ。子規とは7歳違いで、同時代を生きた柔道の創始者である嘉納治五郎さんですら、「あのころ一番よくやったのは野球だった」と言っている。草っぱらでかくれんぼや三角ベースで遊んだ昭和の我々にもよく分かる。

 それから約130年、錦織圭の激しいテニスと人気を知れば、子規さんも婦女子の運動と軽んじたことを詫びなければいけないだろう。また、子規のスポーツ評論の端っこにすら入っていなかったサッカーの熱狂と発展を見たら言葉を失うかもしれない。子規が傾倒したころの野球と同じ魅力がテニスやサッカーにもあることを認め、こう言うかもしれない。

「やっぱりスポーツの魅力は『愉快さと激しさ』に尽きる」と。      (了)

watanabe

渡部 節郎

1946年生まれ 岐阜県出身

[ 経歴 ]

早稲田大学政治経済学部経済学科卒

㈱毎日新聞社入社。スポーツ取材約35年。プロ野球、社会人野球など野球全般。

1988年ソウル五輪では主に陸上競技を担当、1992年バルセロナ五輪では特派員団統括デスクとして現地取材。

渡部節郎さんはスポーツジャーナリストOBによる社会貢献グループ「エスジョブ」に参加されています。

S-JOB(エスジョブ)公式サイト