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2014-10-6

「『奇跡』は準備されている~何が日本のフェンシングを変えたのか!」

bookrev04 日本フェンシング界のエースにして北京、ロンドン両オリンピックで銀メダルを獲得した太田雄貴が絶賛するウクライナ人コーチの日本愛を綴った本である。

 2003年秋、選手としての実績やコーチとしての経験もない名も知れぬ一人の男が来日した。オレグ・マツェイチュク。

来日当時は31歳で、現役を引退してから1年しか経っていなかった。明確なビジョン、独自のメソッドも持ち合わせていない。さらに言葉も分からず、生活習慣も異なる国で選手との信頼関係が築けるのか。そんな人物を日本フェンシング協会は何故強化の責任者として招いたのだろう―。その秘密をオレグ自身が語っている。

 太田という類稀(たぐいまれ)な才能を持つ存在がいたため、マイナー競技から注目される競技に躍り出たフェンシング。韓国・仁川でのアジア大会でも団体で見事に金メダルを獲得して人気もうなぎ上り。しかし、日本選手の活躍の背後で牽引したのは他でもない、オレグのあくなき向上心、情熱、そして巧みなコーチングのお陰だった。

 現在、日本フェンシング協会の男子ナショナルチーム・フルーレ統括コーチ、日本オリンピック委員会(JOC)専任コーチという肩書きを持つ。2年後のリオデジャネイロオリンピック、6年後の東京オリンピックまで日本の面倒を見る予定だという。とにかく日本の実力を世界最高レベルにまで到達させた驚きのコーチングには、他の競技の指導者たちも必ず参考になる本となるだろう。

 著書は2008年の北京オリンピックで太田が2回戦、準々決勝と強豪を次々となぎ倒していく場面から始まる。そしてイタリアのサンツォとの準決勝は紙一重のところで最後に振り切って勝利をつかんで決勝進出。太田とのやりとり、手に汗握る戦いぶりを臨場感あふれるタッチで描く。決勝ではドイツのクライブリンクに敗れたが、このオリンピックから日本の新しい歴史がスタートしたと言えるだろう。

 太田がオレグを絶賛した言葉が引用されている。

「選手の能力を80から90に引き上げるのは難しくはないが、99を100にするのは至難の業。名コーチとはそれができる人のことだが、オレグにはそれができた」

太田との関係について、著者は素直に語っている。最初はコーチとしての力量を疑い、自分の指導を無視するなど、決して近づこうとはしなかった太田。オレグが来日して3年後の2006年、スランプに陥っていた太田が「助けて。勝たせてください」と言ってきた。かなり時間がかかったが、オレグは救ってあげた。その年のドーハ・アジア大会で太田は金メダルに輝く。以来2人の絆は強く結びつき、2つのオリンピックで銀メダル獲得につなげた。

 太田だけでなく、日本代表選手たちとの信頼を得るまでの葛藤、苦悩、そして焦燥の日々を経験した。けんかも繰り返し、今でもそれが続いているという。それだけに語られる言葉は説得力に満ち、広く指導者というものの深さや在り方にも示唆を与えてくれる。銀メダルに輝いたロンドンオリンピックでの団体戦。準決勝の相手は日本よりランキングが上のドイツで、最後に登場した太田が、残り1秒で同点の突きを命中させた。これぞ「奇跡」と言われたシーンだった。しかし、オレグは「皆がそう思ったのも無理はないが、『奇跡』はあらかじめ準備されている」とこともなげに言い切った。残り1秒や2秒という場面をこれまで何度も想定して練習を積んできた。その場面に頭で考える余裕などないわけで、自然と身体が反応しなければいけないのだと説く。オレグは「確かに北京の太田は奇跡のメダルだったかもしれないが、ロンドンは違う」と言い切る。

 オレグが実績のある有名なコーチではなかったのが日本チームに好結果をもたらしたのかもしれない。チームもコーチも若く、ともに野心を持つ。これがうまくマッチしたということ。これこそが「奇跡」と言えるのではないだろうか。

 選手たちとのコミュニケーションを大事にする。オレグは女性選手とセックスの話を気軽にしている。セクシャルハラスメントには十分気を付けており、体調管理や精神管理面で知っておくべき情報だという。男女選手からセックス面の相談を受けることもある。自分を信頼してくれる証拠で、選手たちとの間にタブーはないと自慢する。

 いかにコーチの存在が大事か、ようやく日本もその本質を理解してきたようだ。一流選手には優れたコーチが存在する。フィギュアスケートの羽生結弦にはかつての名選手だったブライアン・オーサー、競泳の萩野公介には平井伯昌、レスリングの吉田沙保里には栄和人、そしてフェンシングの太田にはオレグ…。彼らは、選手の才能を伸ばすとともに、国際大会でのメダル獲得に命を懸けていると言ってもいい。オレグの言葉には説得力があり、スポーツ界にとどまらず、社会のあらゆる分野でもこの本は役に立つだろう。 (了)

堀 荘一さんはスポーツジャーナリストOBによる社会貢献グループ「エスジョブ」に参加されています。

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