次世代に伝えるスポーツ物語一覧

2015-3-4

柔道・中谷雄英

 いまとは比較にならないほどの重圧だった。1964年東京五輪に臨んだ柔道代表に背負わされたのは「必勝」。そうした空気を選手も意気に感じていた。軽量級に出場した中谷雄英は「(選手も)五輪に出れば勝てるという思いはあった。海外勢よりも国内の代表争いの方が厳しかったですから。日の丸を背負うのは誇らしかった」と振り返る。柔道への並々ならぬ期待は、東京五輪が日本発祥の武道が、五輪の正式競技に採用された大会だったからでもあった。

 当時は無差別級を含めて全4階級。世間には「勝って当然」といった雰囲気があふれていた。だから「負けたら(郷里の)広島には帰れん。生きてはおれんという思いはあった。他の競技とは違う重圧でしょう。当日は、もう無心。畳の上だけを見て試合をし、試合が終われば下を見て控室に戻った。観客の声援も覚えていない」というほどだ。だが、そうした心配は無用だった。5試合をすべて一本勝ち。しかも、合計9分という短時間での圧勝で、五輪柔道で初めての金メダリストとして歴史にその名を刻んだ。

 1941年7月生まれ。広島・広陵高から明大に進学したが、身長165センチほどで、体重68キロという柔道選手としては小柄だったため、体重無差別で争う団体戦のレギュラーにはなれなかった。しかし、五輪採用によって体重別の試合が導入されるようになり、大学4年で東京五輪の舞台に立つ。切れ味鋭い背負い投げ、多彩な足技の使い手で「広島の三四郎」の異名を取った。

 中谷に続き、中量級の岡野功、重量級の猪熊功も金メダル。しかし、最終日の無差別級は明大出身の神永昭夫がオランダのヘーシンクに敗れ、銀メダル。新聞各紙は「日本柔道敗れたり」と報じた。中谷自身「神永さんが負けて、日本柔道は負けた」という敗北感があったという。後に代表コーチが神永に「悪かった」と泣いて頭を下げたのを見て、もらい泣きしたとも。そしてそのときにもう一つ胸に刻まれた思い出がある。代表コーチに対し「『相手が強かったんです』と応じた神永さんも立派な方でした」。

 五輪には立場を変えて3度出場した。東京五輪は選手。72年ミュンヘン五輪は西ドイツのコーチ、96年アトランタ五輪は審判で。さらに2012年ロンドン五輪は観客として五輪に触れた。20年に再び東京に五輪がやってくる。もちろん「参加したい」と思っている。=敬称略(昌)