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2015-1-13

世界のオギムラ

 この世で私が最も尊敬するスポーツマンは元国際卓球連盟(ITTF)会長の故荻村伊智朗さんである。何故尊敬しているかというと、選手時代の1950~60年代は世界選手権で計12個の金メダルを獲得し、力道山やフジヤマのトビウオ・古橋広之進とともに戦後日本復興のシンボルになったほか、卓球のみならず幅広くスポーツ全体を冷静に見て、世界平和に貢献した偉大なるスポーツ外交官と言えるからだ。この他にも理由は沢山ある。

 1971年の世界卓球選手権名古屋大会。私は入社2年目で早くも出張取材を命ぜられた。そして世界的なビッグニュースと触れることができた。この年、「ピンポン外交」と呼ばれた世界の歴史を変える出来事が名古屋から発信された。

 この大会に、国内で嵐が吹き荒れた文化大革命の最中にあった中国が6年ぶりに世界の舞台へ復活出場を果たす。

 ここで荻村さんの登場である。前年の1970年に周恩来首相に招かれた彼は中国の復帰と米中の和解、つまりピンポン外交を提案した。そして名古屋大会終了後に米国チームが中国へ招待された。1949年以来険悪だった両国の緊張緩和が実現したという話である。周首相の心を動かし、中国代表選手団を参加させ、米中の国交を結ぶきっかけをつくり、さらに日中国交正常化にも繋げたすごい人物、これらすべてを演出したのが中国から唯一信頼を受けていた荻村さんというわけだ。

 彼はこれらの成功で、新しい卓球人生を切り開いていく。世界を巡る旅に出かけ、特に国際紛争にある国を訪れ、卓球を通じて和平を訴えた。ITTF理事になると、ますます国際社会に目を向け、紛争の絶えない中東諸国、日本と国交のない北朝鮮など、数10カ国を飛び回る。1950年の朝鮮戦争以来、敵対してきた南北朝鮮を何とか統一させようという気持ちも持っていた。

 ここに荻村さんとのエピソードを紹介しよう。1973年春、私は北京で開かれるアジア・アフリカ・ラテンアメリカ友好招待卓球大会に時事通信社記者として初の海外出張することになった。卓球については全くの素人である私に荻村さんは丁寧に技術、国際情勢、勢力地図、大会の意義などについて語ってくれた。誰にでも熱心に接してくれる人柄の良さを痛感した。

 74年、横浜市でのアジア卓球選手権大会が始まる前の出来事。法務省に務める知人から国交を結んでいない北朝鮮が参加の意思があるようだとの情報をもらった。真夜中のことだったが、荻村さんに電話で「来日の可能性」「実力の程度」「韓国との対戦になった場合」など、矢継ぎ早に質問した。

「堀君、その若さでよく情報をキャッチしたね。だが、この問題は今紙面に出てしまうと参加が実現しなくなる恐れがある。君にはこれから情報を流すから、記事にするのは待ってくれ」

その後、荻村さんから情報をもらったが、既に多くのマスコミが北朝鮮出場の事実を知ることになったため、特ダネは逃した。結局、大会途中から参加した北朝鮮だが、これを実現させたのは荻村さんだった。

 70年代から80年代にかけて、荻村氏さんは年間300日近くを海外で過ごす生活を続けていた。卓球の普及、発展、技術の向上のためにアフリカ、中南米諸国を歴訪。卓球後進国への指導とラケットやラバーなど用具のプレゼントが主な目的だった。

真面目で几帳面な性格と目的遂行のためなら絶対にあきらめない情熱とタフネスぶりに私以外にも周囲は畏敬の念を抱いていた。語学力、特に英語はネイティブに近く、そんな彼が87年にITTF会長に就任したのも当然の成り行きだった。

日本人として、外来スポーツ競技団体の長になったのは史上初めてのこと。日本古来の競技・柔道で日本人会長の例はあるが、荻村さんは信頼と人間性、そして行動力とリーダーシップで国際競技連盟(IF)のトップに君臨したわけだ。

日本オリンピック委員会(JOC)の国際委員長としても世界を飛び回り、国際オリンピック委員会(IOC)のサマランチ会長とも懇意となり、ますますスポーツ外交に力を入れていく。98年の長野冬季オリンピックの招致実現にも尽力した。

 荻村さんが生涯をかけて実現したかったのが南北朝鮮の統合だった。スポーツの力、卓球の力でどうしても成し遂げたいと口癖のように言っていた。91年春、千葉・幕張での世界卓球選手権大会。ついに南北朝鮮の友好の橋渡しをやってのける。ITTF会長としてではなく、一人の平和の使者として「南北統一コリアチーム」結成を実現させてしまったのだ。

実現までの努力がまたすごい。韓国に20回、北朝鮮に14回も足を運んだ。スポーツ関係者だけでなく、政府首脳とも話し合った。必死で説得の連続をした結果、南北双方がOKした。日本での宿舎、練習会場、合宿地の手配、準備に汗を流し、万全な受け入れ態勢を整え、南北朝鮮選手団を迎え入れた。

このコリア統一チーム結成は、まさに荻村さんの本領発揮と言っていい。86年ソウルアジア大会、88年ソウルオリンピックも統一チームを模索していたが、実現しなかった。だからこそ、幕張での世界選手権に賭けたのだろう。大会本番では女子の統一チームが、絶対的な強さを誇った中国に対し、決勝戦で死闘の末破って優勝した。下馬評ではコリア不利と誰もが思っていたのに、それをひっくり返したのは団結の力しか考えられなかった。

表彰式では朝鮮半島を薄いブルー一色に染め抜かれた統一旗が掲げられ、国歌の代わりに両方の代表的な民謡「アリラン」の曲が流れた。在日の人たちも分け隔てなく抱き合って喜んだ。選手たちも統一という文字に感激して泣いた。荻村さんの胸にも熱いものが去来しただろう。彼の外交努力が実を結んだ瞬間だった。

 荻村さんは60歳を過ぎたあたりから体調に異変が起きていた。94年1月、彼は末期の肺がんで入院する。病室でも沢山の書類を抱え、仕事を続けた。療養中の10月、広島でのアジア大会へ病院の許可をもらわずに出かけて行った。無理がたたって数日後に意識不明の状態に。そして12月4日、ついに帰らぬ人となってしまった。あまりにも早い死、享年62歳だった。

私は広島アジア大会の時、やせ細った荻村さんに言ったことがある。「働きすぎですよ。あなたが倒れたらそれこそスポーツ界の損失になる」。すると、「卓球が世界的に人気のあるサッカーのようになるまで働きたいんだよ」とにっこり笑った。

不眠不休で世界を飛び回った男。この表現が当てはまるかどうかは別として、日本には残念ながら荻村氏のような国際感覚に優れたスポーツ人はいない。

2020年東京オリンピック・パラリンピック開催が実現したことに、荻村さんは天国できっと喜んでいるに違いない。

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 堀 荘一

1947年9月生まれ 東京都杉並区出身

1970年早稲田大学社会科学部卒、同年株式会社時事通信入社。

1996年運動部長、1999年整理部長、2005年解説委員などを歴任。

オリンピックの取材経験は夏・冬合わせて6回に上る。夏季はモントリオール(1976年)、ロサンゼルス(1984年)、ソウル(1988年)、冬季は札幌(1972年)、リレハンメル(1994年)、長野(1998年)。取材した競技は体操、バレーボール、卓球、アーチェリー、ボート、馬術、陸上、水泳、大相撲、アマチュア野球、プロ野球、プロボクシング、アルペンスキー、スピードスケート、フィギュアスケート、アイスホッケーなど

堀 荘一さんはスポーツジャーナリストOBによる社会貢献グループ「エスジョブ」に参加されています。

S-JOB(エスジョブ)公式サイト