花形記者 ~ ふたつの使命
今から40年以上前の話をしよう。私が大学を出て新聞社に入社していわゆるかけ出しのころです。最初の配属がスポーツ記者というわけで、担当はプロ野球だった。デスクに直され直されながら商売道具の文字というものが多少、人目にも何とか読んでもらえるようになったころだった。先輩記者に連れられてプロ野球の球場に行った。後楽園球場だった。試合前の一塁ベンチのど真ん中にはでんと眼鏡をかけた男が腰を下ろしていた。それが川上哲治・巨人軍監督である。あの巨人V9監督だ。グランドでは長嶋選手や王選手が打撃、守備の練習をしていた。高田、柴田、末次外野手に森捕手、土井内野手、堀内投手もいた。テレビで観ていた「V9戦士」がズラリ目の前にいるのには何だか興奮したり感激したり…。花形野球記者時代である。
その時にある先輩記者が「佐藤くん、このチームからニュースをとるには大変なんだよ」と聞いた。「哲のカーテン」というものがあったという。監督の名前からマスコミが名付けたカーテンだというのだ。担当記者の報道規制を自ら川上監督がしていたことからこの名前がつけられたという。個々の選手への取材は自由だったが、チーム全体となれば全権を握る監督だけに、その向こうには分厚いカーテンがあったという。
その時代といえばまだサッカーはマイナーだった。もちろんJリーグなどはない。運動記者の花形はプロ野球担当だった。スポーツ新聞一社で巨人担当3人時代だ。そんなスポーツ記者にとって二つの使命があると思う。ひとつは「文章力」、もうひとつは「ニュース力」だ。グランドで繰り広げられる一喜一憂するドラマをどう表現するか、いやできるかが勝負である。頭だけでは始まらない。多大の感性を中心とする文章力だ。何十人もの人間が同じドラマを観戦している。翌日の紙面に歴然と評価が現れる。他者の記者に比べて優劣が問われる。書き方やものの見方が大きく左右されるのもわれわれの宿命である。翌日、「おれの方がかったな」とか「あの部分がたりない」と悔しい思いをしたのも多かったような気がする。
ただ、私の場合は恵まれていると思う。長嶋・巨人の担当を経験し、王選手の756本の本塁打世界記録も書かせていただいたことがなによりも他社との競争心をあおってくれていたのだろう。
もうひとつはニュースへの取材力だと考える。華やかな表舞台が終わると、来季へ向けた選手補強や首脳陣人事だ。ニュースを追うオフシーズンのいわゆる「ストーブリーグ」が燃える。ここではあいまいな結果ではなくはっきりと勝負がつくから怖い。毎日球団事務所に通っていてもビッグニュースは転がりこんでは来ない。ニュースをつかむテクニックは人さまざまだが、人脈をたどり耳をダンボにしなければ甘い話などははいらない。
有名な話がある。長嶋さんが亜希子夫人と結婚するニュースを巨人系スポーツ紙が一面で報じた。大ニュースである。そのニュースを書いた記者はわざと社内の乗客たちに見えるようにして山手線を一周したという。私でも同じことをやっただろうな。今でこそ時代は変わって、電車の中ではみんなが指先を動かしてメールやゲームをしているが、あのころはみんな新聞を読んでいたものだ。だから、「ニュース価値」は高かった。
私は20代の約5年弱、プロ野球担当をしたが、会社幹部からその間正直文章で褒められたのが一度、ニュースで褒められたのが一度しかない。文章は広島球場でホームランを打った現役晩年近い王選手の記事だった。ゆっくりとダイヤモンドを回るその時の心情を中心に書いた記事だった。ストーブリーグでは、ヤクルトの広岡監督が辞任する前、監督と森ヘッドコーチが東京・高輪のホテル一室にこもり、辞任を決意した記事だった。たった一度でもいい、私は今でも大変誇りに思っている。
遠き日の思い出である。それが後に歩んだ社会部で目に見えない原動力、いわゆる私の力となってくれたことを、今でも思っている。
1948年、島根県雲南市生まれ
趣味はゴルフと温泉旅行。座右の銘は「不撓不屈(ふとうふくつ)」 。
好きな言葉「後悔するな」。
経歴:中日新聞(東京新聞)
【プロ野球】
金田ロッテ、秋山大洋、長嶋巨人、広岡ヤクルトを担当。王本塁打世界 記録(756号)、
広島カープ優勝連載企画などを取材。
【ゴルフ】
ジャンボ尾崎100勝や杉原輝雄プロ一面夕刊企画「放射線」で半年間執筆したほか、
スポーツ選手の母を綴った「母のまなざし」を長期連載。
【デスク時代】
プロスポーツ担当デスクとして紙面改革や若手育成に尽力。 あめとムチで「人情派の鬼デスク」との異名を誇った。
【出版物】
「記者魂」(講談社)
「新橋二丁目七番地」(ソフトバンククリエイティブ)
「東京歌物語」(東京新聞出版局)