政治に揺さぶられたモスクワオリンピック
これほど怒りに震え、悔しさや悲しさを覚えたことはなかった。記者は常に冷静で、的確な判断が求められるが、
この時ばかりは我慢できなかった。そう、34年前の1980年モスクワオリンピックで日本がボイコットした問題で
ある。
この年の春、数競技を残してモスクワ行きの日本代表選手が決まっていた。晴れの舞台に向け、それこそ死に物
狂いの猛練習の末、やっとつかんだ代表の座。それが日本政府の方針で進むべき道が閉ざされてしまう。こんな理
不尽な状況があっていいのだろうか。
マラソンの瀬古利彦、柔道の山下泰裕が、レスリングの高田裕司…。金メダル候補が涙ながらに日本の参加を訴
えた。球技勢の男子ハンドボール、女子バレーボールもメダルを目指して準備万端だった。
ボイコット反対の声は各界から出始め、学者らも「日本オリンピック委員会(JOC)の自主的な決定に任すべき
で、日本政府もこれを無条件に尊重すべきだ」と訴えた。だが、JOCは政府の圧力に対抗する理念がなく、議論を
尽くすこともなかった。
私は「スポーツに政治が介入することは断じて許せない」という思いで、このボイコット問題と対峙し、取材を
開始した。「たぶん駄目かもしれない」「参加の望みは捨てない」「練習に身が入らない」など、様々な選手たち
の声が心に染みた。
80年1月、赴任先の広島支社から本社運動部に戻った私は、アメリカの動きに注目した。「これはもしかしたら
大変なことになるぞ」。79年12月、ソ連がアフガニスタンに侵攻。これを機にアメリカのカーター大統領がオリ
ンピックボイコットを西側諸国に呼びかけた。これに同調する国は40以上にも及び、日本政府も追随、JOCに不参
加を強要した。
そして 忘れもしない80年5月24日。JOC総会で、モスクワオリンピックのボイコットが決定した。喧々諤々の
議論が交わされ、それでも結論が出ず、最後は全JOC委員の挙手で、ボイコットの賛否を取り、「賛成29、反対13」
で不参加が決まった。
国家の圧力に屈したJOCは、スポーツの基本理念やオリンピック運動の理念を踏みにじることになったと言って
もいい。このボイコットを契機にJOCは理念なき集団と化し、政府の支配を無抵抗に受け入れる組織になったとい
うわけである。JOC担当記者として、日本スポーツ界の力のなさを痛感した。
当時、国際オリンピック委員会(IOC)副会長だった清川正二さんはJOCの自主性を訴えた。「JOCとしてしっか
りとした信念を持ち、ボイコットに反対しなければいけない。マスコミも世論を動かしてほしい」。この言葉に感
銘を受け、スポーツジャーナリストがもっと批判精神を発揮して、ボイコットの理不尽さを世間にアピールしなけ
ればならないと心に決めた。
大会そのものは平穏に終わったが、西側諸国の集団ボイコットにより、オリンピックの権威が失墜したことは疑
いようがなかった。西側で参加したのはイギリス、イタリア、オランダ、フランスなど。何もボイコットまでして
世界平和を乱すことはないというのが参加理由だった。
閉会式で人文字(絵)のこぐまのミーシャがテレビ画面に映し出された。式の終盤にさしかかった時、ミーシャ
の左目から大粒の涙が流れる人文字(絵)の演出。大会が終わる寂しさの他に、世界のすべての国が参加してくれ
なかった悲しみからの涙だったと思った。
こんなオリンピックは二度と開いてほしくない。しかし次の84年ロサンゼルスオリンピックでも東側諸国を巻き
込んだ報復ボイコットにつながり、連続の片肺オリンピックになってしまった。
モスクワオリンピックでの無念さを思い浮かべながら、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けた政
府の方針が気になっている。来春に創設されるスポーツ庁の傘下に新しい独立行政法人を置き、巨額の選手強化費
をJOCではなく、独法が各競技団体に直接配分することが現実味を帯びてきたことだ。
JOCの加盟団体である柔道、フェンシングなどの協会で補助金の不正受給の不祥事が露見、ガバナンスやコンプ
ライアンスが問われており、国はスポーツの強化費配分をJOCに任せられないということらしい。しかし、これで
は何のためにJOCが存在しているか分からない。せっかくモスクワオリンピックのボイコットという歴史的一大事
を経験して、政府の介入を許さないところまできたのに、また政府によってスポーツ界が左右される事態に陥る危
険性が出てきた。
竹田恒和JOC会長は「強化、選手派遣、オリンピック運動の推進は三位一体。これまで長年蓄積してきた経験が
われわれにはある。選手強化は素人(政府)に任せるわけにはいかない」と主張する。当たり前のことだ。超党派
の国会議員でつくるスポーツ議連(麻生太郎会長)のプロジェクトチームが目指す新独法は文部科学省とスポーツ
庁の下に置かれる政府の組織。選手強化がJOCから離れて独法に移れば、今後の選手強化は完全に国家主導になる。
モスクワボイコットの教訓を生かし、JOCはオリンピック不参加という愚挙を再び起こさないためにも、毅然とし
た態度で奮闘努力しなければならないだろう。
1947年9月生まれ 東京都杉並区出身
1970年早稲田大学社会科学部卒、同年株式会社時事通信入社。
1996年運動部長、1999年整理部長、2005年解説委員などを歴任。
オリンピックの取材経験は夏・冬合わせて6回に上る。夏季はモントリオール(1976年)、ロサンゼルス(1984年)、ソウル(1988年)、冬季は札幌(1972年)、リレハンメル(1994年)、長野(1998年)。取材した競技は体操、バレーボール、卓球、アーチェリー、ボート、馬術、陸上、水泳、大相撲、アマチュア野球、プロ野球、プロボクシング、アルペンスキー、スピードスケート、フィギュアスケート、アイスホッケーなど