スポーツの書棚~JTL Book Review一覧

2014-7-31

「フットボールの社会史」

bookrev02 世界の人々はなぜサッカーに熱狂するのだろう。かつては、W杯大会予選の勝敗がもとで中米の隣国同士が戦火を交えたことがあったし、サポーター同士が衝突して多数の犠牲者を出す騒動はしばしば起こっている。明治初年、日本に伝わったサッカーはスポーツとして発展してきた。しかし、世界には「サッカーは民族の命だ」と言う人もいる。スポーツの熱さを超えて、民族・人種の身命を焦がすような何かがあるからW杯は熱狂するもののようである。

 古本屋で見つけたこの本は、サッカーの波乱に満ちた前史を、史実を中心に紹介している。サッカーの母国・イングランドでは数百年間にわたってサッカー禁止令があったことに驚いた。それも繰り返し、繰り返しに出された。1314年ころ、ロンドン市長が最初の禁止布告を出した。国王エドワード2世が敵地スコットランドへ向かおうとしていたから、サッカーは市中治安の妨害になるという理由だった。違反者には投獄の厳罰が下るのだが、その半世紀後にエドワード3世自らがサッカー禁止の勅令を出さざるを得なかったことをみると、あまり守られなかったようである。「身体強健な全男子は祝祭日に弓矢、石玉に励む習慣が全く廃れた。王国には弓の射手がなくなろうとしている」。国家防衛の妨げになるほど農夫、職人、徒弟の間でサッカー人気が高まり、国王の命令は効き目がない。これから20年後にはリチャード2世が、1452年にはヘンリー6世が、1477年にはエドワード7世が、1535年ころにはヘンリー8世が弓矢に代わって「砲術を維持するため」サッカーを禁止、これは19世紀まで残されたという。サッカー禁止令を出したのは敵国スコットランドでも同じだった。

 王様の言葉にそむくほど楽しかった当時のサッカーはどんなものかというと、現代のサッカーとはずい分違う。場合によっては千人超が集団になってボールを追う。相手を蹴り上げて骨折させ、ボールが途中で川に落ちれば情け容赦なく相手を水中に突き落とす大乱闘で死者が出た。また、ロンドンの曲がりくねった街路でやるサッカーではガラスを割り建物を破壊する乱暴粗暴の限りを尽くした。スポーツではなく、地域住民間の闘争といった実態ではあるが、現代サッカーの熱狂の源流を感じさせるエピソードである。そして、「様々な氏族が隣り合わせに定住しながらも常に部族の違いの記憶をとどめていた頃の村落の生活や組織の最古の状態の遺風がサッカーの中にある」という内容の一文に納得した。古くから多人種、多部族、多民族の国では、折り合いの付けられない複雑な問題を抱えて暮らしていた。人種・部族差別もあっただろう。宗教儀式の日に開催されたサッカーは、たまりにたまった日ごろのうっ憤を天下御免で晴らせる絶好の機会だったようだ。鋲(びょう)を打ちこんだ厚手の靴をはき、パッドの上から革の脚絆(きゃはん)を脚に巻いたいでたちは、隣町の敵を思う存分殴り、蹴り上げるためであり、まさに死地におもむく覚悟であったという。

 1863年、イングランドの地域や学校ごとにバラバラだったルールが統一されたあと、サッカーは世界共通のスポーツへと発展する。明治海軍を指導するため来日したダグラス英国海軍少佐一行が明治海軍の若いエリートたちに初めて伝えたのは明治6(1873)年である。航海術、砲術など厳しい授業の合間に、円陣を組んでボールを蹴った。サッカーは東京高等師範学校を卒業した教師を通じて全国に種がまかれ、1902年の日英同盟締結によって英国人教師が地方の中学校にまで多く来たことでルールへの理解が深まっていった。

 近年、日本サッカーが強くなってW杯大会がテレビで身近なものになるにつれて、サッカーはただのスポーツではないと感じてきた。ルールより闘争のルーツを抜きにしてサッカーの熱狂を理解することはできないとこの本は教えている。今も絶えることのない宗教、人種、民族、国と地域などのせめぎ合いの中で生まれる闘争のエネルギーがW杯大会へ集中、発散、そして昇華されているのだろう。

渡部 節郎さんはスポーツジャーナリストOBによる社会貢献グループ「エスジョブ」に参加されています。

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