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2013-12-11

東京オリンピック 選手とその時代

2013/12/04


 オリンピック報道をするメディアにとって、夏季五輪は4年に1回の一大取材合戦である。戦争という言葉を使うなら、もっと理解しやすい。

 手元に「東京オリンピック取材要員」と手書きされた前回東京大会の毎日新聞報道体制一覧表がある。社内の「報道本部」は作戦総指揮をとる参謀本部で、その下に「神宮前線本部」と「駒沢前線本部」。これは国立競技場と駒沢競技場の近くに構えた取材戦の前線基地。その傘下で第一線記者(新聞社では今でも兵隊と呼ばれる)が約20の競技現場に配属された。合わせて200人超の取材陣。バブル期のソウル五輪特派員団は総勢50人弱。戦災による焼け野原からわずか19年で奇跡的な経済復興を遂げた新しい日本の象徴という理念を持って開催された東京五輪では、各社とも総力を挙げての取材戦となった。21世紀の今、参加国・地域、競技、選手も増加した。選手に弊害を与えることは避けなければならないにしても、テレビ、インターネット報道が加わってオリンピック報道は前回大会よりも過熱するのは間違いない。

 こうした地元開催のオリンピックで、選手にかけられる期待という名の重圧もまた海外開催の五輪とは比較にはならない大きなものだ。49年前の五輪では開幕に合わせて東海道新幹線を開通させ、首都高速道路を急造して間に合わせた。国の威信をかけて、国を挙げて成功させなければならなかった。そんな中で、選手たちにかかる重圧は想像に余りある。

 重量挙げの三宅義信は自衛官として重圧を跳ね返して期待通り、金メダル第1号になった成功者である。多い日には計100㌧の重量を挙げた。火照った身体を一気に冷やすために体育館を飛び出し、真冬の池の氷を割って泳いだ。「今でいうアイシング効果かな。練習法は全部自分で考えた」と話す。

 東洋の魔女の異名をもらった不敗の女子バレーボールは回転レシーブを技術開発して金メダルへの最大の武器とした。レスリングは通常のスパーリングに加えて電気を煌々と点けたまま寝かせたと思ったら、真夜中に不意に叩き起こして練習。時にはライオンとにらめっこさせたのもどんな状況にも負けない心身を鍛練して金メダル獲得につなげた。今と比べると十分でない練習環境で、戦後復興させた熱気と心意気を感じさせられる。

 しかし、これらの活躍の陰にマラソンの円谷幸吉や、女子陸上の依田郁子のような悲劇的な人生の終わり方があったことも忘れられない。ある意味、自国開催の重圧の中で苦闘したことと無縁ではないだろうと思う。復興の熱気や光と共に、悲愴感漂う東京五輪なのである。

 7年後の新しい東京五輪では、選手たちは違う姿を見せることと思う。女人禁制の古代オリンピックの流れを汲んで始まった近代オリンピックは回を重ねるたびに女子競技・種目を増やしてきた。男子なら大学や企業、自衛隊、警察などに所属しながら強化するより方法がなかったのが、女子種目の増加でその垣根は緩くなった。「私はこのスポーツが好きだからやっている」タイプの増加である。音楽大学卒業と同時に交響楽団に入ることが決まっていたのに、たまたまテレビ観戦したクレー射撃に魅せられて、その後の人生を変えた女性がいた。そして、8年後のアテネ五輪の代表になって、見事に5位入賞した。女子サッカーのなでしこジャパンのメンバーにはスーパーのレジ打ちなどパートタイムの仕事で生活を支えながら五輪代表を目指した選手たちがいた。男子マラソンでは本業の傍ら、休日ランナーとして実業団選手以上の活躍を見せている選手もいる。みんなそれぞれ、自分のスポーツが好きでやっている。成果が挙がろうが失敗しようが、基本的には自分の問題として納得できる。傍から見て、悲愴感を感じるものはない。こんなタイプの選手がこれからますます増えて行く傾向にあるだろう。それはスポーツが自然な形で個人生活の中に組み込まれていることの表れとも言えるし、前回東京五輪の時と比べると、確実に日本人にとってのスポーツは成熟していると考えられる。

 オリンピックは昔も今もトップアスリートの大会である。メダル争いを巡っての報道は過熱するだろう。しかし、高度成長期の五輪とは違う、成熟した日本の成熟した五輪の姿がそこかしこであらわれてくるものと期待している。


渡部 節郎

1946年生まれ 岐阜県出身
[ 経歴 ]
早稲田大学政治経済学部経済学科卒
㈱毎日新聞社入社。スポーツ取材約35年。
プロ野球、社会人野球など野球全般。
1988年ソウル五輪では主に陸上競技を担当、
1992年バルセロナ五輪では特派員団統括デスクとして現地取材。


渡部節郎さんはスポーツジャーナリストOBによる社会貢献グループ「エスジョブ」に参加されています。
S-JOB(エスジョブ)公式サイト