私のスポーツ記者人生
2014/01/09
学生時代に映画「ローマの休日」を見て新聞記者になった。イタリア訪問中の某小国の王女が窮屈な大使館を抜け出し、ローマの街中で出会った新聞記者と淡い恋心を通わすストーリーだ。
不純な動機で選んだ職業だったが、2012年5月まで通算42年間、記者として働くことができた。
記者生活の大半がスポーツ担当だった。特に希望して選んだ担当ではなかったが、結論からいうと、楽しく、充実した年月だった。その理由は、選手たちから元気や勇気をもらう日々だったからだ。
記事にするのは大概がその日の試合のヒーロー。野球なら勝ち投手や活躍した打者。ゴルフなら優勝争いに絡んでいる上位の選手である。つまりその試合でいい仕事をした選手たちが取材対象となる。充実感や満足感、達成感に満ちた選手の表情に接すると、我々記者もパワーをもらった気になってくる。
もちろん敗戦の原因となった選手や下位に沈んだ選手を記事にすることもあるが、彼らはただうなだれているだけではない。猛練習に耐え抜いた人たちであり、元来がポジティブに物事を捉える習性を持っている人たちだ。「次戦ではリベンジを」「今週は私の週でなかったが、来週は私の週にする」などと、必ず負けじ魂をみせる。へこたれたままで終わらずに、前を見ている。
常人にはマネのできないアスリートの卓越した技や鍛え抜かれた心身を目の当たりに見聞きする感動は強烈であり、記者冥利に尽きる。
同じ試合を見、同じ選手を取材しながら、翌日の紙面の内容は各紙いろいろ。自分が考え及ばなかった洞察力、選手の心情を鮮やかに描く表現力など、他社の記者の記事にうならせられることは再三だ。
他社の紙面に載った特ダネや独自ダネに、ガツンと頭をたたかれたような気持ちなることもある
私と同じ会社の先輩記者や、原稿をチェックするデスクに教わることも少なくないが、ほとんどのケースの「先生役」は他社の同業者。競争相手のライバルに学ぶことが多かった。
私が現場で直接目にしたもので、最も感動をおぼえた試合やシーンが3つある。年代順にあげるとすれば1つ目は1979年11月の日本シリーズ、近鉄-広島第7戦の9回裏の攻防だ。
山際淳司氏のノンフィクション「江夏の21球」の舞台となった場面である。1点を追う近鉄が9回裏に無死満塁のチャンスを迎えながら、石渡のスクイズ失敗などで江夏に抑えられ、日本一を逃してしまったシリーズだ。
当時、私は近鉄球団担当。バックネット裏で1球1球、身震いしながら投手が投げる球種とコースをスコアブックにつけ、取材していた。
試合の2年後だったと思う。近鉄の監督だった西本幸雄氏と二人だけで話をする機会があった。話題がその日本シリーズ第7戦のことになると、「仮にもう一度同じ場面を迎えたら、私はまた同じサインを出すと思う。自分の気持ちの中で自分に尋ねたとき、今でもあのときはスクイズが正しかったという気がする」と語っていたのが、つい最近のことのように覚えている。
2つ目の試合は、87年の日本プロゴルフ・マッチプレー決勝の高橋勝成と尾崎将司の対戦だ。朝の8時30分にスタートした戦いは正規の36ホール(2ラウンド)で決着がつかず延長に。エキストラ1ホール目に高橋が1アップで勝った時は午後4時15分と、延々8時間近い死闘だった。
第2打を尾崎がピンそば50センチにつければ、後から打った高橋も30センチにつけ返すなど、スーパーショットの連続。「マッチプレーは1ホールごとに勝ち負けがはっきり分かって残酷すぎる。自分の子供には見せたくない」。高橋が優勝の喜びより、放心状態で胸の内を語っていたのが印象的だった。
3つ目は88年に行われた冬季五輪カルガリー(カナダ)大会のフィギュアスケート女子シングル自由で見せた伊藤みどりの演技だ。何種類もの3回転ジャンプを次々と決めて、会場は万雷の拍手。演技後、スタンドの観客は総立ちだった。
順位は総合5位だったが、優勝したカタリナ・ビット(旧東ドイツ)や地元カナダの選手よりスタンディングオベイションは熱烈で、もし観客の満足度をはかる得点があれば、文句なしのトップとなる沸き様だった。
ここにあげなかったが、もちろんほかにも数々の名場面に出合っている。スポーツ記者として、数多くの名勝負の現場にいたことが私の財産になっている。選手の強烈な技やひたむきな表情、セリフの一つ一つが、心に深く刻まれている。もし40数年前に時間を戻すことができたとしたら、私はまたスポーツ記者の道を選ぶと思う。
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二宮幸博さんはスポーツジャーナリストOBによる社会貢献グループ「エスジョブ」に参加されています。 ☆S-JOB(エスジョブ)公式サイト |