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2014-2-6

私の記者人生と、スポーツジャーナリストをめざす方への提言

2014/02/06

 「スポーツジャーナリスト」を語る前に、私の歩んできた新聞人生を少しばかり紹介しておこう。スポーツ記者の多くは、会社に入社して以来退職までスポーツを専門に取材する人が多い。私はその意味からいえば、彼らに比較して現場経験に乏しく、底の薄い記者なのかもしれない。夢は「事件記者」で、念願どおり「社会部」というセクションに籍を置き壮絶な社会を見続ける変わった記者歴をもつ。スポーツ取材は23歳から30歳までのプロ野球担当と、40代後半の5-6年間の運動部デスク時代である。中途半端で、〝デコボコ記者〟だからこそ、いつも現場が新鮮に映ったのだろうか。今思えば、スポーツ記者は、「取材テクニック」「原稿速度や文章テクニック」」「視点の変換」など、多くを教えてくれた。それは、私の記者人生にかけがえのないものでありました。

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Ⅰ スポーツ時代を彩った名場面と人間の物語が、私の記者人生の原点でありました。

【鉄のカーテン】
 この言葉に耳覚えがあると思います。そうです。イギリスの元女性首相のサッチャーさんの代名詞でした。女性首相の逞しさと男性を圧倒する指導力などから彼女は「鉄(アイアン)の女」と呼ばれた。最高権力者を象徴する言葉として語られていたわけです。
 そんな「鉄のカーテン」が、それ以前に日本のプロ野球界にも存在していたのです。昨年、93歳で亡くなられた川上哲治さんが巨人の監督を務めていたころの話で、監督・川上さんのけっぺきなまでの選手管理術から「哲のカーテン」と先輩記者たちが命名したそうである。川上さんは報道陣との間に取材コントロールや記事チェックなどにも神経を払ったといわれ、長嶋茂雄や王貞治をはじめとするスター軍団を率いて前人未到の9年連続日本一(1965-1973年)を達成した。その「哲のカーテン」に正面から体当たりして取材を重ねていた私の先輩の巨人担当には驚かされてしまった。
 私の会社は中日新聞で親会社、球団(ドラゴンズ)とも読売グループとはライバル関係であり、先輩によると、情報の洩れなどに当時は神経をとがらせていた風潮があったらしい。私はそのころ、入社したばかりで右も左もわからない。そんな時、他社よりもハンディを背負った巨人担当3人の先輩記者の取材と姿にほれこんでしまった。これが記者なのだ!と〜。

【原爆病院】
 あれは1975年(昭和50年)でした。広島カープがセリーグ覇者になった。広島の街には赤ヘル軍団が真っ赤な花が鮮やかに咲かせた。広島優勝で連載企画を書くために、私は広島に一カ月常駐することになり、街の風景や人の歓び、ここまでの道のりなどを取材した。だが、何かが足りない、何かを置き忘れている。考えた末に浮かんだのが、「原爆病院」の取材でした。街には花が咲いているが、原爆に遭い未だ苦しんでいる人たちがいる病院だ。取材できるのか不安いっぱいだったが、とにかくだれにも許可なく病院の建物に入り込んだ。ベッドの姿は痛々しい。老女に話しかけてみる。
 「カープが優勝しましたよ」と耳元でささやけば、やや年配の女性が「よかった、よかった、そうかね、カープがね…。広島もこれで明るくなるね…」と声を絞った。その言葉が紙面を飾った。原爆病院の人たちを取り上げた新聞は他に見当たらなかった。先輩たちが思い切り褒めてくれた。

【ジャンボ・尾崎とスモール・杉原輝雄】
 事件や霞が関の官庁などの取材から運動部のデスクになった。ゴルフ取材は難しい。インタビューでは言葉を交わせるが、プレー中の選手の心の微妙な移り変わり、目に見えないかっとうをなるべくその時のものに近い形で文字を表現しなければならない。そのためには、みんなで一緒に聞く取材だけでは薄っぺらな記事しか書けないのが、またゴルフでしょうか。
 杉原さんと親しくなったのは、がんを宣告された1997年でした。半年間の夕刊一面の連載で寄稿していただいた時である。会うたびに勝負に対する厳しい執念や、人間の暖かさに魅せられた。あめやビー玉を買う小遣いほしさに自宅近くのゴルフ場に弁当を持って行きロストボールを拾うアルバイトした。「手術をすると体力が落ちる」とスポーツセンターに通いながらレギュラーツアーにも参戦し続けていた。54年の長きにわたる「生涯選手」の道は、栄光と壮絶な努力の軌跡だったと思う。杉原さんはマナーなどについて、ジャンボにただ一人モノがいえるゴルファーだった。
 一方、ジャンボの栄光はだれもが認める。夕陽を浴びながら弟の直道さんとトムワトソンを従えて18番ホールに上がってきたあの雄姿。宮崎のフェニックスカントリークラブでプロ100勝を飾った。そんなジャンボに、私はたった一つ尋ねてみたく、千葉・習志野市の自宅を訪れた。どんな反応を示すだろうかと、興味をもって辛口で聞いた。それは、「なぜ海外進出をしない?」という質問でした。それに対しジャンボは「言葉がしゃべれない」「食べ物が違う」「外国では眠れない」……。コースではありえない会話に、あのジャンボが応えてくれた。繊細なジャンボの一面が「特ダネ」?として、夕刊一面で踊ったのでした。

Ⅱ スポーツジャーナリストをめざす方へ

 いろいろなセクションでいろんな取材をしてきましたが今、思うのは社会部でも政治部でも運動スポーツの取材でも基本は同じということです。先人としての私の想いを少し提言しておきましょう
① 先輩を学べ、教われ
② 人を知れ、壁に向かうな 
③ 人の言葉を正確に伝える
④ 生活の中から感情をみがく
⑤ 会見後の独自取材の重要性

佐藤 史朗

1948年、島根県雲南市生まれ
趣味はゴルフと温泉旅行。座右の銘は「不撓不屈(ふとうふくつ)」 。好きな言葉「後悔するな」。

経歴:中日新聞(東京新聞)

【プロ野球】
金田ロッテ、秋山大洋、長嶋巨人、広岡ヤクルトを担当。王本塁打世界 記録(756号)、広島カープ優勝連載企画などを取材。

【ゴルフ】
ジャンボ尾崎100勝や杉原輝雄プロ一面夕刊企画「放射線」で半年間執筆したほか、スポーツ選手の母を綴った「母のまなざし」を長期連載。

【デスク時代】
プロスポーツ担当デスクとして紙面改革や若手育成に尽力。 あめとムチで「人情派の鬼デスク」との異名を誇った。

【出版物】
「記者魂」(講談社)
「新橋二丁目七番地」(ソフトバンククリエイティブ)
「東京歌物語」(東京新聞出版局)


佐藤史郎さんはスポーツジャーナリストOBによる社会貢献グループ「エスジョブ」に参加されています。
S-JOB(エスジョブ)公式サイト