アイスホッケーのために!そして、東北のために!
冬のスポーツの花形として、冬季オリンピックでは最終種目として行われるアイスホッケー。日本では、以前は東京にもチームがあり、幅広い地域で行われていましたが、不況の影響もあって現在は東京のチームはなくなり、2003-04年シーズンからは中国、韓国のチームも加えたアジアリーグアイスホッケーがスタートしました。
そのアジアリーグアイスホッケーに、初めて東北にフランチャイズを持つ、東北フリーブレイズが加入したのは2009-10年シーズン。2シーズン目となる翌2010-11年シーズンにはプレーオフの決勝まで進みましたが、第1戦前日に東北大震災が発生し、プレーオフは中止に。結局、決勝に進出した2チームがチャンピオンとなり、初タイトルを獲得しますが、その歩みは紆余曲折だったそうです。
今シーズンで4シーズン目を迎える東北フリーブレイズの代表取締役社長 中村考昭氏に2回にわたって、東北フリーブレイズのここまでの歩み、そして、アイスホッケー界、さらには、スポーツビジネスについても語って頂きました。
第1回は「東北フリーブレイズ!ここまでの歩み」です。
Q : 2008年10月に設立した「東北フリーブレイズ」!東北にアイスホッケーチームを作ろうとした動機は何ですか?
東北フリーブレイズ 代表取締役社長 中村考昭氏 |
A:アイスホッケーというのは元来、北のスポーツで、冬のオリンピックでは(夏のオリンピックにおける)バスケット、サッカー、マラソン等に匹敵するもっとも注目度の高い花形のスポーツです。日本では北海道や青森の八戸、それと日光等が中心で、アジアリーグ所属の選手についても多くが北海道出身で、一部は東北、日光、そして、最近は東京や関西の選手も少しはいると思います。それは練習するための氷の関係もあります。そういったスポーツの特性と、リンク(氷)が物理的に必要となる面からも日本及びアジアでアイスホッケーをやっていく場合、活動拠点の中心は北に設立するほうがいいだろうと思いました。そして、設立するに当たっては、すでに北海道には2チームあり、日光にもチームがあったので、むしろ、まだチームのない東北全域をカバーして、さらに、チームのない西日本全域をもカバー出来るようにしようと考えました。もちろん、基盤は東北におくけれども、日本全体にアイスホッケーの魅力、ウィンタースポーツの魅力を発信しようと。ただ、チームとしても自立的に安定して運営していかなければならないとも思いました。それが、東北を選んだ理由です。
Q : クラブを持とうと思った時期と設立するまでの期間はどれくらいでしたか?
A:もともと我々の母体のゼビオ株式会社の中に有志が集まっての趣味チームがあり、みんなで頑張ってプレーしていました。そこに、従業員として働いていた人や、頑張っているのを見て集まった人達も加わって、だんだんチームが強くなっていきました。それと、同じタイミングで西武のチームがなくなることが決まり、入れ替わって新規参入することになりました。
Q : クラブ創設当初、一番苦労したことは何ですか?
A:今も苦労は絶えませんが、アイスホッケーは、リンク(氷)がないとできないスポーツなので、試合をする場所、練習をする場所がかなり限られてしまいます。どのスポーツも練習場所や試合場所の確保は大変だと思いますが、氷という制約環境の中で(氷のある)場所を決めて、試合を出来るようにすることをどうやって整えて、フランチャイズ設計していくかという難しさはありました。かつ、東北フリーブレイズの場合は、アイスホッケーの魅力をより多くの方に知ってもらいたいと思っているので、単にチームが勝てばいい、お金が儲かればいいという視点だけでチーム運営をしていません。その結果、ホームタウン以外で試合をすることが多くなっています。通常だと、基本ホームでやって、アウェイに遠征するという形になると思いますが、我々はホームゲーム自体を全国でやっています。たとえば、一昨年は八戸と郡山のダブルフランチャイズで行いましたが、(震災の影響もあって震災以降は郡山で試合は開催できていない)その他、試合を行った地域は、八戸、三沢、盛岡、東京、新横浜、豊橋、名古屋、神戸、長野で、4年間の間に、ホームゲームをいろいろ動かしています。なかなかプロのアイスホッケーチームを見られない地域の皆様に見て頂きたいので、ホームを動かしています。ただし、スケジュール調整は氷のある期間も限られていて、相手チームとの合意も必要なので、なかなか大変ではあります。
Q : クラブとして、フランチャイズの東北という地域をどう考えていますか?
A:東北は非常に重要なホームタウンとして位置づけています。ただし、ホームタウンだけでフランチャイズ的にチーム運営することのみがスポーツ経営の正解だとは思っていません。確かに多くの欧米のプロスポーツチーム(日本も)は、ある一定のエリアに根差して、深くそこの人が応援して、さらにそれを軸に世界展開していくという経営形態で一定の成功を収めている事例が一般的です。実際にニューヨークヤンキース、マンチェスターユナイテッド、FCバルセロナなどが成功していると言えるのではないでしょうか。ただ、それしか成り立たないかと言うと、そうではないと思います。例えば、ゴルフは、毎週毎週、何十人ものツアープロが日本中ツアーを転戦して試合をしています。相撲もそうです。国民が応援しているけど、春場所(大阪)とか名古屋場所とか巡業するわけで、年に一回九州に来るのを楽しみにしている人もいます。それで成り立っているスポーツがあるのも事実です。ですから、フランチャイズビジネスのモデルの一つだけが、盲目的に絶対にそれしかないのだということ自体、僕は違うと思っています。いや、他にもあると思っています。いくつかのパターンがあると思うので、あえて、フランチャイズから一歩も出てはいけないとは思っていません。
Q : 加盟2シーズン目の2010年―11年シーズンでプレーオフファイナルまで行きました。そして、その初戦の前日に東日本大震災が起こります。今、振り返っていかがですか?
A:チームは郡山の磐梯熱海アイスアリーナにいました。練習が始まる少し前で、選手は準備をしている最中でした。そこでファイナルの第1戦が行われる予定でした。対戦相手は韓国の安養ハルラで仙台まで来ていました。(地震の瞬間)会場は壁とか落ちてきて外国人選手は驚いて、スケートをはいたまま逃げるなど大混乱でした。(地震がおさまった後)まずは、選手やスタッフの身の安全を図って、弊社(ゼビオ株
式会社)が経営しているホテルがすぐそばにあったので、その日は(選手やスタッフを)そこに避難させました。また、対戦相手のハルラの人達も韓国に帰らせなければと思いました。ちょうど、福島空港に到着した飛行機があり、それに乗ってもらうことを手配出来たので、無事に(韓国に)帰って頂くことが出来ました。その飛行機がいなかったら、すぐに(韓国に)帰ることは出来なかったかもしれません。
Q : 東北フリーブレイズとして震災後、最初にしたことは何ですか?そして、今もしていることは何ですか?
A:八戸が選手の住んでいる場所でしたので、八戸にすぐ帰って二日後くらいから、選手たちは自主的にがれきの処理とかヘドロの処理とかボランティア活動を開始しました。八戸も津波の被害がひどかったので、選手はたまたまいなかったから直接的な被害はありませんでしたが、地域の方々と一緒に出来ることをやろうという感じでした。
Q : そのような時期を経て、クラブの活動を再開するまではいかがでしたか?
A:がれき処理や街の片付けなどの復興支援活動はしていましたが、次のシーズン(2011年)は9月スタートで、時間はありませんでした。一部の外国人選手の契約は複数年契約のため、契約期間がまだ残っていましたが選手の意向をすぐに受け入れ契約解除してすぐ帰国させました。一方で新シーズンに向け6月ごろまでにはチーム編成をしないといけないし、外国人選手も採らないといけないし、7月からは陸トレ(陸上トレーニング)が始まり、8月から氷上(トレーニング)も始まって、9月にはシーズンインと、時間はどんどん進んでいきました。ただ、シーズンは進んでいくので、出来る限りのチャレンジをしようということで、シーズンに突入しました。ただ、磐梯熱海アイスアリーナは試合の時には観客席として仮設スタンドを敷設して試合をしていたので、我々としては試合自体は物理的には開催可能でしたが、余震を考えると仮設スタンド倒壊のリスクもありますし、海外チーム(韓国中国)や海外ファンの方から見た「福島県」という面の風評イメージの問題もあったので、震災以降は、磐梯熱海では試合は行えていません。
Q : 震災復興へ向けて何かしたことはありますか?
A:フリーブレイズは震災が起こったからということではなく、それ以前から地域の方々、子供達との連携は積極的に行っていました。例えば、子供ホッケークリニックだったり学校訪問だったり。震災後、大変だから減らすとか止めるとかいうことは全く考えていませんでした。今もたくさん行っているし、徹底して続けていきたいです。あとは、東北に活動の中心をおいているチームとして、地域の皆様に頑張る姿を見せ続けたいです。選手も八戸に住んでいる選手が多いので、東北に対しての思い入れは強くなったと思います。東北代表で頑張らなければいけないと思っているのか、特に西(西日本)に行ったときにその気持ちが強くなっていると思います。
Part2 へ続く
東北フリーブレイズ チーム情報 http://www.freeblades.jp/