次世代に伝えるスポーツ物語一覧

水泳・敗戦に沈んだ日本に希望の灯をともした「フジヤマのトビウオ」

 「我々は《プリンス・オブ・ウェールズ》を忘れない」。古橋広之進は1948年ロンドン五輪開催の1カ月ほど前に、こう記された電報が届いたと聞かされたという。第二次大戦初期、日本軍がマレー沖で撃沈した英国戦艦の名を記した電報。戦後初の五輪への参加が断たれたことを知った瞬間だった。
 その前年の8月、神宮プール(2003年に閉鎖)では世界記録が誕生していた。戦後初めての水泳の日本選手権で、古橋が四百メートル自由形で4分38秒4の世界新を樹立。当時、日本水泳連盟は国際水泳連盟から除名されていたため、公認されない幻の記録ではあったが、日本にとっては希望の灯となった。

 「五輪で日本の実力を示したい」。この思いを断たれた日本水連は妙案をひねり出す。日本選手権をロンドン五輪の日程に合わせて開催し、記録の上で世界と戦おうという計画を立案。いわば日本水泳界が世界に叩きつけた挑戦状だった。大会プログラムには当時の日本水連会長、田畑政治の「ロンドン大会に挑む」と題した“檄文”が掲げられた。

 「もし諸君の記録がロンドン大会の記録を上回るものであるならば……ワールド・チャンピオンはオリンピック優勝者にあらずして日本選手権大会の優勝者である」
 48年8月6日。男子千五百メートル自由形決勝。神宮プールは1万7000人の観衆で膨れ上がった。そして古橋は期待通りに、世界記録を21秒8も短縮する18分37秒0という驚異的な記録で優勝を果たす。ロンドン五輪優勝のマクレーン(米国)の19分18秒5を大幅に上回る圧勝だった。2日後の四百メートル自由形でも世界新を樹立。「朝昼晩とサツマイモ。あとで計算してみると、1日、900キロカロリーぐらいだった」という中での快挙は国民を熱狂させた。

 翌年、日本水連は日本スポーツ界のトップを切って国際競技連盟へ復帰。そして49年8月、古橋らはロサンゼルスで開催された全米選手権に招かれ、ここでも世界新を連発した。敗戦国から来た五尺七寸五分(約174センチ)、十九貫(約71キロ)の20歳の青年の偉業に、現地の新聞は写真入で大きく報じ、「フジヤマのトビウオ」と絶賛。あまりに有名なニックネームが生まれた。
 生涯で世界記録を実に33回も塗り替えた「フジヤマのトビウオ」も五輪とは縁が薄かった。絶頂期に五輪出場を拒まれ、その後、南米遠征時にアメーバ赤痢にも罹患した古橋は、日本が戦後初参加した52年ヘルシンキ五輪に出場したものの、四百メートル自由形で8位。五輪でメダルを獲得することはなかった。=敬称略。(昌)