次世代に伝えるスポーツ物語一覧

マラソン・金栗四三、五輪での屈辱をバネに

 1912年5月16日、新橋発敦賀行き列車に、青年2人が乗り込んだ。陸上短距離の三島弥彦(東京帝大)と、マラソンの金栗四三(東京高師=現筑波大)。日本選手が初めて五輪史に名を残したのがこの2人。日本が初参加した1912年ストックホルム五輪への旅立ちだった。
 敦賀から船でウラジオストク、シベリア鉄道を乗りつぎ、さらにモスクワから再び船に乗り換えてストックホルムにたどり着いたのは6月2日。実に18日間も要した。金栗20歳の初夏だった。
 「第5回オリンピック大会の予選会を行う。種目は百、二百、マラソン(当時は25マイル=40・2335キロ)。希望者は申し出るよう」。新聞に掲載された国内予選会の募集記事を目にした金栗は「自分の脚力を試すチャンス」との思いで参加を決めた。この予選会は五輪前年の11年11月19日に行われ、脚力自慢19人が参加。ここで金栗は2時間32分45秒で優勝を果たす。しかも従来の記録を大幅に上回る世界最高記録(当時)をマークしての快挙とあって、「あわよくば優勝も」との期待を背負っての渡欧ともなった。

 しかし日本初参加の檜舞台では期待を裏切ることになる。マラソン当日の7月14日は、30度を超える暑さに見舞われ、熱中症に陥っての途中棄権。嘉納治五郎団長に「日本スポーツ界の黎明の鐘となれ」の檄を受けながらの挫折だった。

 ストックホルム五輪に続き、20年のアントワープ五輪(16年ベルリン五輪は第1次大戦のため中止)、24年パリ五輪の計3大会にマラソン代表として出場を果たすが、16位に入ったアントワープ五輪を除いて途中棄権に終わる。この不本意な成績が、その後の金栗の人生を決めることにもつながった。

 五輪での“屈辱”をバネにマラソンの普及、選手の育成に尽力。欧米選手の使っていたシューズに対抗すべく足袋を改良したほか、ペース配分や歩幅と所要時間の関係など貴重な経験を後進に伝えた。さらに箱根駅伝の企画から実現にも奔走した。

 その金栗は67年、ストックホルム五輪55周年の際、スウェーデンに招かれ、思い出のスタジアムでゴールテープを切った。記録は54年8カ月6日5時間32分20秒3。そのときスタジアムにはアナウンスが流れたという。

 「日本の金栗ただいまゴールイン……これでストックホルム大会の全日程が終わりました」=敬称略。(昌)