次世代に伝えるスポーツ物語一覧

バレーボール・師弟の信頼の絆が生んだ「東洋の魔女」

 1964年10月23日。地元開催となった東京五輪の女子バレーボール会場、駒沢体育館にはひときわ大きな歓喜の渦が起こった。「東洋の魔女」と呼ばれた日本チームが宿敵・ソ連をセットカウント3-1で下し、金メダルを勝ち取った瞬間だった。
 「東洋の魔女」。1962年の世界選手権で圧倒的な力を見せ付けて優勝したことが名前の由来といわれている。“魔女”の大半は1959年から175連勝を成し遂げた大日本紡績貝塚工場(日紡貝塚、大阪府)の選手で、代表監督も日紡貝塚の故・大松博文監が務めた。鮮やかにスパイクを決め、回転レシーブを繰り出すさまは、まさに「魔法」のようだった。
 とはいえ、金メダルへの道のりは壮絶だった。当時日紡貝塚の選手で、東京五輪では主将としてチームをまとめた河西昌枝さん(74)は当時の練習を振り返る。「仕事を終えて4時半にコートに集まり、大松先生が6時くらいに来るまでは私が代わりにボールを打っていました。食事をはさんで午前1時から午前1時半に終了。それから簡単な夕食とお風呂などで寝るのは午前3時くらい。朝8時に起きて、9時には事務所に出ていました」。当時の企業スポーツにプロ契約は存在せず、選手も社員として仕事と練習を両立していた。この生活は、東京五輪までの4年間続いた。
 壮絶な練習を続ける大松監督。だが、反目しようとする選手は皆無だった。河西さんも「(大松監督を)心から信頼できるからついていけたのです。先生の指示を受けてやったことが勝ちにつながった」と振り返る。大松監督の口癖で、著書の題名にもなった「成せば成る」(元は米沢藩主、上杉鷹山の言葉)。この言葉を胸に、「五輪で金メダル」という至上命題に向け、師弟は一つになった。
 世界へ挑戦するためには課題もあった。国内で無敵だった当時は9人制だったが、折しも、東京オリンピックから6人制のバレーボールがオリンピックの正式種目となった。これ以上ない晴れ舞台に照準を合わせ、外国から本を取り寄せて翻訳したり、写真を見て研究したりと、自分たちでハンデを克服した。これが1960年の世界デビュー、そして世界での躍進へとつながっていった。
 スポーツに科学的理論など無いに等しかった時代。名将、大松監督の厳しくも愛情あふれる指導と選手の血のにじむような努力の積み重ねが、普通の女性を“魔女”に磨き上げた。=敬称略。(有)