次世代に伝えるスポーツ物語一覧

ボクシング・「たこと原田」の友情

 日本中がプロボクシングに熱狂していた1960年。東京・笹崎ジムのホープ、原田政彦は、若手選手の登竜門「東日本新人王トーナメント」の準決勝で、同じジムの親友、斎藤清作と対戦する羽目になった。日ごろから練習を共にする選手同士の試合は、ジムにとってはいわば教え子のつぶしあい。ボクシング業界では、敬遠される風潮があった。
 「すまないが、お前は出ないでほしい」。ジムの会長は、原田のいない時を見計らってひそかに斎藤を呼びつけ、棄権を命じた。原田よりは3歳年上。だが実力で劣り、そして、あまりに優しい性格を見通しての、非情の通告だった。
 原田はジムの期待に応え、トーナメントで見事優勝。その後「ファイティング原田」とリングネームを変え、フライ級、バンタム級の2階級で世界チャンピオンになり、一躍スターダムにのし上がっていく。一方の斎藤は日本王者にはなれたものの、世界への夢はかなわず、23歳の若さで静かにリングを去る。気を使わせまいと周囲に隠していたが、実は子供のころに左目の視力を失っていた。そのため、相手のパンチがよけられず脳に重いダメージを負い、言語能力や記憶力が衰える「パンチドランカー症状」に苦しんでいた。
 ボクシングで大成できなかった斎藤は、「たこ八郎」と名乗るコメディアンに転身。パンチドランカーでせりふが覚えられない苦労はあったが、いちずな努力家と人の良さから、タモリら先輩芸能人にかわいがられた。そして数多くのお笑い番組や映画に出演し、人気を博していった。
 引退後はジムを経営し、指導者としても活躍した原田は誰よりも斎藤の成功を喜んだという。ボクシングを離れても、いつも笑顔を絶やさない親友だった。だからこそ、心の奥に引っかかり続けていた、あの時の負い目。「本当に、本当に悔しかったはず。それなのに彼は人生で一度だって、僕に恨み節をいったことはなかった」。
 1985年7月24日。新聞夕刊に1本の訃報(ふほう)記事が載る。「たこ八郎さん急死 酔って海で泳ぐ」。人気絶頂を迎えた44歳。海に出かけた仲間たちに、前日に原田と遊んだことをうれしそうに語っていたという。=敬称略。(国)