次世代に伝えるスポーツ物語一覧

競泳・前畑ガンバレ

 「前畑がんばれ、がんばれ、がんばれ…」
 1936(昭和11)年のベルリン五輪を語るとき、いや日本の五輪史を語る上で、このフレーズとともに、女子200メートル平泳ぎで日本女性初の金メダルを獲得した前畑(結婚して兵藤に改姓)秀子をはずすことはできない。

 前畑の金メダルへの道のりは4年前のロサンゼルス五輪にさかのぼる。同種目で前畑はいきなり銀メダルを獲得。当時18歳の前畑にとっては想像以上の好結果で、「これで引退できる」と胸を張って帰国した。ところが、永田秀次郎・東京市長からは「なぜ、金メダルを取ってくれなかったのだね。この悔しさを4年後のベルリンにぶつけてくれ」と予想外の言葉で迎えられた。さらに全国から届いた励ましの手紙も後押し、前畑はその後の4年間を「日本のために」、水泳にささげることを決意した。

 練習は壮絶だった。1日2万メートル泳ぎ、スタートの練習のやり過ぎで足の指から血が出ても、練習をやめなかった。ひたすら練習に打ち込んだ日々。そんな過酷な練習はベルリン五輪前年の大会で世界新記録を生む。手応えを感じていった。

 最大のライバルはドイツのゲネンゲルだった。ベルリン五輪はナチス・ドイツにとって国威発揚の格好の舞台であり、地元での金メダルはゲネンゲルにとっても絶対命題だった。一方、重圧がかかっていた前畑も、「負ければ生きて日本に帰ることはない」。まさに互いに国家の期待を背負っての戦いだった。

 決勝は、ナチスのヒトラー総裁が見守り、緊張感が漂う中で行われた。予想通り2人の一騎打ちとなった後半100メートル、故河西三省アナウンサーによるあの名実況が生まれる。「…ターンしました…あと40、前畑がんばれ、がんばれ、がんばれ」。実況中の「がんばれ」の回数は、実に24回。河西アナが代弁した国民の願いは優勝という最高の形で結実した。「…勝った、勝った、勝った、前畑勝ちました、前畑勝ちました」。1着前畑、3分3秒6。2着ゲネンゲル、3分4秒2。前畑とゲネンゲルはプールで堅い握手を交わし、互いをたたえ合った。

 前畑は1995(平成7)年2月に80歳で亡くなった。ゲネンゲルも前畑の後を追うかのように、同じ年の8月に83歳で他界した。五輪後もテレビ番組の企画などで何度か再会し、生涯の友となった2人。天国でも一緒に水泳を楽しんでいるだろうか。=敬称略(有)