次世代に伝えるスポーツ物語一覧

陸上・人見絹枝

 「日本女性初のオリンピック選手」にして「日本女性初のメダリスト」、さらに19歳で大阪毎日新聞社に入社した「日本初の女性スポーツ記者」-。昭和初期の陸上選手にしてジャーナリストだった人見絹枝は「スーパーウーマン」と称される。周囲より頭一つ抜きん出た体格も、行動力も、意志の強さも…どれをとってもまさに「規格外」な女性だった。
 1896年、近代オリンピックの記念すべき第1回大会、アテネ五輪は男性だけの祭典だった。女性が参加を認められたのは第2回大会のパリ五輪からだが、競技はテニスとゴルフの2種目のみ。22年に女性の陸上選手だけを集めた「万国女子オリンピック大会」が開催されたのをきっかけに、1928年の第9回アムステルダム五輪でようやく、100、800メートルと400メートルリレー、走り幅跳び、円盤投げの5種目に限り、女子の陸上種目が認められた。このとき選手兼記者として参加した人見は21歳。日本代表選手団で唯一の女性選手でもあった。
 待ち焦がれた晴れ舞台。だが、得意種目の100メートルで準決勝敗退という結果に終わってしまう。しかしそこからが常人と違うところだった。「このままでは帰れない」と公式試合の経験のなかった800メートルに出場し、ドイツのラトケとのデッドヒートの末、2位でゴール。タイムはラトケが2分16秒8の世界新(当時)、人見が2分17秒6。公式戦初レースとは思えない戦いぶりだった。
 銀メダル獲得には後日談がある。800メートルの決勝レース中、他の選手にひざをスパイクされていたのだという。予想外の“登板”にアクシデントが重なったにもかかわらず銀メダルに輝いたというのも、気力のなせる技だろう。必死さが伝わってくるようだ。
 記録づくしの人生の終末はしかしながら、意外なほど早く訪れた。1930年の長期遠征中に体調を崩し、翌31年8月2日、肺炎のためわずか24歳7カ月で急逝。命日は奇しくも、壮絶なデッドヒートを演じたアムステルダム五輪、女子800メートル決勝の日と同じだった。
 女子陸上の発展を願ってやまなかった人見は、生涯でいくつもの本を著した。自伝に関しては、21歳で「スパイクの跡」を、そして自身の死の直前に「ゴールに入る」を刊行。本の結びはプラハから神戸港に戻ってきたシーンだった。
 「さようなら! 皆さん! とうとう私等の仕事も一切終わりました。さようなら! 長い旅でしたね」

 自分の最期を予感していたかのような悲しい一文だが、実は、自分の中で何かをやり遂げた達成感から出た言葉だったのかもしれない-。=敬称略(有)