レスリング・日本レスリングの父、八田一朗
「剃るぞ!」。ふがいない負け方をした選手に浴びせたこの“脅し文句”。生みの親は日本レスリングの育ての親、八田一朗である。始まりは、目標に遠く及ばない銀メダル1個に終わった1960年ローマ五輪後に、八田の命令で役員、コーチ、選手が頭の毛はもちろん、下の毛も剃って再起を誓ったことからだという。
「剃るぞ!」ばかりではない。「ライオンとにらめっこ」や、合宿では夜通し電灯をつけたままマット上で寝るなど、「八田イズム」と呼ばれたスパルタ教育は枚挙にいとまがない。だが、八田は「精神力」ばかりを追い求めた指導者であった訳ではなかった。
日本レスリング協会会長の福田富昭は「そりゃ練習は厳しかった。でも強くなるにはどうしたら良いかを常に考えていた方で、科学的、合理的でもあった」と振り返る。どういうことか。福田は続ける。「まず選手に負けた言い訳をさせなかった。選手は負けると、その理由を実力以外のところに求めたがる。例えば『夜眠れなかった』とか、海外の試合では『コメが食べられず、力が出なかった』とか…。すると、八田さんは普段からどんな状況でも眠れるようにすればいいと、実際に合宿で実践する」というのだ。ライオンとのにらめっこにしても、狙いは話題を提供することだったらしい。マイナー競技だったレスリングに注目を集めることで、「選手を発奮させたかったのでしょう。レスリングに関する記事は批判も含め、すべて歓迎でした」というのだ。
八田がそこまでレスリング強化に打ち込んだ理由はどこにあるのか。八田とレスリングの出会いは、早大柔道部が柔道普及のために米国遠征した1929年春に遡る。メンバーの1人だった八田が体験したワシントン大学レスリング選手との他流試合が、その後の人生を決定づけることになった。双方とも柔道着を着ての試合は早大の圧勝だったが、道着を脱いでの試合では散々に痛めつけられたのだ。初めて接する格闘技に、まるで歯が立たぬ惨敗。八田は帰国後、学内でレスリングの重要性を説いて回る。柔道にとってもレスリングを研究しておくことが役に立つとの考えでもあったが、異端児扱いされたことは想像に難くない。ならば「オレが」とばかりに、31年に早大にレスリング部を創部。翌年のロサンゼルス五輪には八田自らフリースタイル・フェザー級の選手として出場するが、惨敗。それでも、ここで引き下がる訳にはいかない。指導者として闘志を燃やし続けた。
ロンドン留学の経験もある八田は、選手に留学を奨励。実際、米国はもちろん、レスリングの強い西アジアなどにも盛んに選手を送ったほか、英語の勉強やテーブルマナーにもうるさかったという。「剃るぞ!」からは想像できない一面だ。
努力は実る。64年東京五輪。レスリング会場となった駒沢体育館は5個の金メダルに沸いた。表彰式後、白髪の紳士が宙を舞う。八田だった。その後、参院議員1期を務めるなど、スポーツ界の地位向上に尽力し、83年に76歳で他界。その一徹な生き方は、誤解を生むこともあったが、レスリングを日本の“お家芸”に育て上げた最大の功労者であることは間違いない。=敬称略(昌)