次世代に伝えるスポーツ物語一覧

スケート・鈴木恵一

 「トシをとり、力の限界がきました」。その顔を涙がおおう。72年札幌冬季五輪、スピードスケート男子五百メートル。レースを終えた1人の男が、引退を宣言した。五輪は様々な人間模様を演出するが、時としてそれは、残酷なドラマともなる。札幌五輪で選手宣誓の大役を担った鈴木恵一も、五輪に泣いた1人。男子五百メートルで世界選手権優勝5回、世界記録更新2回。一時代を築き、「世界最速の男」として広く名を知らしめながら、五輪では一度も表彰台に上ることはなかった。
 「収入があると遊んでしまう」と王子製紙を退社し、練習方法への不満から明大スケート部を飛び出すなど、とことん自分の”スケート道”を追求した鈴木は、初出場の64年インスブルック五輪で2位と0秒1差の5位入賞を果たす。その後も順調に進化を遂げ、64年、65年、67年と世界選手権で3度の優勝。そして充実期に迎えた68年グルノーブル五輪は「優勝候補の大本命、最悪でもメダルは確実」のはずだった。

 ところが、レースの1時間前、不運が鈴木に襲いかかる。ウォーミングアップ中に小石を踏み、スケート靴の刃が欠ける緊急事態。「俺はこんなことをするために、これまで努力してきたのか」。刻々とスタート時間が近づくなか、泣きながら刃を研ぎ直したが、間に合うはずもなく、結果は8位。4年間の血のにじむような努力が無に帰し、己の運命を呪うしかなかった。

 失意の中一度は引退したが、母国開催の札幌五輪を控え、他に有力選手がいないことから、現役に復帰。母国にメダルをもたらすため、厳しい練習を再開した。ところが、腰痛などに加え、ゴミを燃やした際にスプレー缶の破片が当たり、目を痛めるなど、ここでも不運はついてまわり、現役最後のレースは、19位。最後まで五輪の女神が鈴木に微笑みかけることはなかった。

 鈴木は現在、日本スケート連盟の強化部長として、2010年バンクーバー五輪に向け、日本チームを支える。選手としては果たせなかった夢を、いまなお追いかけている。=敬称略(謙)