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体操・加藤澤男、敗戦から得た収穫

 「勝っていたら、天狗(てんぐ)になっていた」-。1977年に引退するまでに五輪へ3度出場し、日本人最多の金8個を含む計12個のメダルを獲得した。誰もがうらやむ数々の栄光。だが、加藤澤男は意外にも3度目の五輪、個人総合3連覇のかかったモントリオールで味わった敗戦に、「救われた」という。
 1968年メキシコ五輪では、個人と団体総合、床で金、つり輪で銅。初出場ながら堂々たる結果を残し、一躍脚光を浴びた。他方で、大会中は自らの演技に集中するために、他の演技や自己得点を見ないように徹底した。「まるでロバさんだった」という。
 続くミュンヘン五輪に向けては、「(たとえ)他の選手が気になっても、自分の演技に集中できるようにしないと」と、自らが感じていた精神面の課題を克服して臨んだ。その成果だろう。本番の個人総合の優勝争いでは、アンドレアノフ(旧ソ連)に2種目を残し0.025点差を付けられながらも、ライバルの演技を冷静に観察。「守りに入っているように見えた」と分析し、相手の演技を自分への弾みにした。「負ける気がしなかった」という自信に満ちた演技で、前大会を上回る5個のメダルを獲得した。
 気がつけば、メキシコとミュンヘンの両五輪で、史上2人目となる個人総合連覇を果たしていた。次の五輪は、史上初の個人総合3連覇がかかっていた。だが、メダリストとして生活できる時代ではなく、モントリオール五輪への出場は悩んだという。「妻も子供もいる。いつまでもこうやっているわけにはいかないし、3回目は辞めようか…」。家族のことを考えると、引退の二文字さえ頭をよぎった。両足をねんざし、周囲からは「もう終わりだろ」。そんな声も聞こえてきた。
 しかし、療養中に競技を離れて浮かんできたのは、「3連覇できるチャンスはそうない。これを逃してなるものか」という勝利への欲求だった。競技生活の集大成をかけて臨んだ五輪。個人総合での『金』は至上命題となった。
 結果は、加藤が2位でアンドレアノフが優勝。「彼は前と同じ失敗はしなかった。追っても、追っても、追いつかなかった」。ライバルの演技は、完璧(かんぺき)だった。「国旗掲揚で右側を向いたら、あいつの尻しか見えなかった。悔しい気持ちがね、シャクで、シャクでどうしていいか分からないくらい、発狂しそうなくらいだった」。

 気持ちの整理をするために費やしたのは、3カ月。その末に出した答えはこうだった。

 「僕は8回表彰台の一番上に立ち、自分の気持ちだけを考えてきた。でも、負けた人が僕と同じように悔しい思いをしていたのだと分かった」
 勝ち続けてきたからこそたどり着いた悔しさの解釈だった。「それまではすがすがしい気持ちで君が代を聴いていたが、逆に負けたことで助かった。人の気持ちになれてよかった」。前人未到の『金』を逃した影で、大切なものを掴んだという実感があった。=敬称略(み)