次世代に伝えるスポーツ物語一覧

陸上・西田、大江の“友情のメダル”

 「あんたらの先輩が美談にしたてたんやけど、そんなことやない。間違えた決定やったから修正したちゅうだけや…」。日本五輪史上あまりにも有名な“友情のメダル”。その主役の一人、西田修平は産経新聞の取材に対し、その由来を意外にもこう語っている。メダル誕生の舞台となったベルリン五輪から60年後の1996年のことだった。
 だが、西田のこうした思いとは別に、ベルリン五輪陸上棒高跳び決勝で演じられた闘いと、試合後、同記録ながら2位となった西田と、3位とされた大江季雄が帰国後に互いの健闘をたたえて、銀と銅のメダルを2つに割り、それをつなぎ合わせて「メダル」を作った行為はまさに“友情”と形容するのがふさわしい。またそれほどの熱闘でもあった。
 1936年8月5日、ベルリン。棒高跳び決勝は、競技開始から4時間が過ぎ、日本の西田、大江と米国のセフトン、メドウスの4人の争いとなっていた。高さは4メートル35。1回目は全員が失敗。2回目でメドウスだけが成功し、3回目に残り3人がバーを落としたことでメドウスの金メダルが決定した。すでにあたりは闇。「寒いのと腹が減ったのとで、もう嫌になりかけていた」と西田は振り返っている。4メートル15に下げた決定戦、西田と大江は跳び、セフトンが落とした。これで日本選手の2、3位が決まった。当時の規則通りならば順位決定戦を続けねばならない。だが、日本人同士とあって順位決定を日本に任せよう、との提案がなされ、4メートル35の前の4メートル25を、1回目でクリアした西田を2位、2回目に越えた大江を3位とする届け出がなされ、公式順位になったという。
 だが、西田は発表された成績に耳をうたぐった。「同記録だから、2人とも2等」と思っていたというのだ。精も根も尽きるほどの長時間に渡る熱闘と、この思いが“友情”と呼ばれるメダルを生んだ。
 西田には2人の出会いから始まる思いもあったろう。西田、早大1年の冬のことだ。大阪で開かれた陸上競技講習会に、先輩の織田幹雄に連れられて西田はコーチを務め、そこで素質ある青年に目を留めた。京都・舞鶴中学(現・西舞鶴高)3年の大江だった。「卒業したらワセダに来いよ」と声をかけたという。だが、大江は4年修了で慶大予科へと進む。「むこうのマネージャーが座り込みまでやったという。4年だというんで安心していたんだなあ」。西田の述懐だった。それでも学校の垣根を越えて切磋琢磨していったライバルだったからこそ、「2人とも2等」へのこだわりが生まれたのだろう。
 1932年ロサンゼルス五輪での西田の銀、そしてベルリンでの西田、大江の銀、銅と続き、次こそ金メダルという期待は、実現しなかった。40年東京五輪は近づく戦火で返上、中止となり、西田も大江も戦地に趣いたのだ。そして大江は41年12月24日、フィリピンで帰らぬ人となる。27歳だった。生還した西田はその後、大江の分まで陸上の普及に尽力したことは言うまでもない。=敬称略(昌)