第一回国体
街には闇市が立ち、人々は日々の食糧を求めて歩き回っている…、そんな時代だった。戦後の日本スポーツの進展に大きく寄与した国民体育大会(国体)は昭和21(1946)年、戦火を免れた京都市を中心に関西で産声を上げた。夏季、秋季、冬季の3大会のうち先陣を切った夏季大会は8月9日から3日間の日程で、戦後初の日本水泳選手権を兼ねて兵庫・宝塚プールで開催された。
この年の4月、日大予科2年に進級した古橋広之進は「腹いっぱい食べられれば幸せだった」と当時を振り返る。水泳部の合宿所裏を畑にし、郊外の農家に買出しに行っては転売して食いつないでいたという。
「(46年に)復学し、また泳ぎ始めてみると、どんどん速くなる。面白くてね、合宿所隣のプールで午前5時ごろから泳いでいたよ」
国体開催の話を耳にしたのはそんな時期だった。「どんな大会か分からなかったが、日本選手権を兼ねるというので《よし出てやろう》と思った」。ただ飽食の現代からは想像もできない苦労もあった。開催地は兵庫県。汽車賃も宿泊代も食べ物すらない中で、どうやって宝塚まで行くか。古橋は苦笑いを浮かべながら振り返る。「先輩が《俺の言う通りにしろ》というんだ。どうするかというと、汽車には動き出してからデッキにぶら下がる。駅の構内に入る前に飛び降りて、また乗るの繰り返し。下車した町では学校のプールを探して泳いだ。宿直室に泊めてもらえることもあったが、ほとんどが野宿。1週間かけて何とかたどり着いたんだ」
ところが野宿は到着後も続いた。「明るいうちは宝塚プールで練習し、夜になると川っぺりで寝た。蚊がすごくてね、ふんどしを濡らし体に巻きつけて寝たよ。そうすると涼しいし、蚊も防げる…」という状況で、古橋は四百メートルと八百メートル自由形に出場し、1勝1敗。八百メートルで村山修一(早大)にタッチの差で敗れた。これ以後、昭和25(1950)年8月の日米対抗大阪大会でフォード・コンノ(米国)に敗れるまで、実に4年間、不敗を誇ることになる。
そしてこの大会は、後に「フジヤマのトビウオ」と称される古橋にとって良きライバルとなる橋爪四郎との出会いも演出した。国体後、古橋は新聞社のイベントに協力し、琵琶湖横断一万メートルと和歌山県での水泳講習会に参加した。和歌山・伊都中学で行われたその講習会で、橋爪と出会い、日大進学を勧めたのだった。
「復員してきた選手、学生らが一堂に会した国体で勝ったことで、琵琶湖の遠泳にも誘われた。国体はその後の(飛躍への)大きなきっかけになった」。今でこそ国体はその役割自体が議論の対象にもなっているが、あの時代、不世出の英雄の出発点の一つだった。=敬称略(昌)