次世代に伝えるスポーツ物語一覧

応援団

 戦前戦後を通じて、スポーツシーンに欠かせないのが応援団。観客を統率し、一丸となって自分のチームのみならず相手チームにもエールを送る応援団のパフォーマンスは学生スポーツの楽しみのひとつでもあり、応援団自体も日本固有の伝統スポーツに位置づけられている。
 組織的な応援が始まったのは、1905年(明治38)年11月12日、野球の早慶戦3回戦。早稲田大学応援部が編纂した『早稲田大学応援部の歴史』には、このときの応援の風景が大きな驚きをもって伝えられている。
 「観衆が驚いて目をみはったのは、場の一隅から突如として起こった異様な応援の声であった。それは、それまで例のなかった応援であった。早大渡米中に用いられた物の余りとして、えび茶に白く『WU(ワセダユニバーシティーの頭文字)』と抜いた応援旗が在米の校友より200本余り送られていた」
 試合から遡ること7カ月。同年4月、早稲田の野球部は日本のスポーツチームとして初の米国遠征を行っており、現地で組織的な応援を目の当たりにした野球部長の安部磯雄が学生に紹介した。早慶戦で初代応援隊長として指揮を執ったのは、当時早稲田高等予科生だった吉岡信敬。「野次将軍」と呼ばれ、馬に乗って早慶戦に現れたという伝説を持つ猛者だ。吉岡のリードによって、「フレーフレー早稲田」と日本初のカレッジエールが戸塚グラウンド(東京都新宿区)にこだました。
 組織的な応援で先んじた早稲田だったが、応援歌の誕生は宿敵、慶應義塾大学に先を越された。1927(昭和2)年、慶応義塾は秋の早慶戦で、かの有名な応援歌「若き血」を披露。スタンドの歌声が選手を鼓舞したのか、そのまま慶応義塾に勝利を呼び込んだ。早稲田も負けじと、4年後の1931(昭和6)年、春の早慶戦で第一応援歌「紺碧の空」を発表。野球部も今までの不振が嘘のような活躍を見せ、見事勝利した。野球の試合だけでなく、応援曲でも切磋琢磨してきたのである。その後、応援団にも吹奏楽団(ブラスバンド)やチアリーダーが登場し、一層華やかな応援を展開するようになった。
 一方で、近年ではときに過剰ともいえる絶対的な上下関係が入部希望者を激減させ、深刻な部員不足に悩む団体も多い。今年1月には1922(大正11)年に創部された名門・明治大学応援団のリーダー部が、部内いじめがきっかけで解散に至った(吹奏楽部、バトン・チアリーディング部は存続)。
 かつて体育会といえば上下関係は当たり前で、どんな競技でも下級生が上級生を敬い、従うのが不文律であった。しかし、スポーツも科学的データが重視され、その対極にあるともいえる根性論は衰退、上下関係も崩壊していった。スポーツの世界も21世紀に入り急激な変貌を遂げる中、上下関係を遵守し、「競技者を応援する」という一点で、自らを厳しく律して鍛える応援団といえども、変わってはいけない部分がある一方で、21世紀を生き残るためには変わらなければいけない部分があるのも、また真実だ。=敬称略(有)