次世代に伝えるスポーツ物語一覧

ラグビー・宿沢広朗

 春の香り漂う東京・秩父宮ラグビー場のグラウンドで、身長160センチあまりの小さな男がいかつい男たちに抱えられ、何度も宙を舞った。胴上げされた男は、宿沢広朗。ラグビーの世界では、英4カ国がホームユニオンと呼ばれ、権威を持つ。1989年5月28日、宿沢率いる日本代表はスコットランドを28-24で破った。日本ラグビー史上初めて伝統国の一角を崩した一戦は、ラグビー界とビジネス界の双方で抜きん出た才覚を発揮した指揮官がもたらした金星だった。

 スクラムハーフとして早大で1年からレギュラー入りし、日本代表でも活躍した宿沢だが、卒業後は大手銀行に入社、まもなく第一線でのラグビーからは退いた。そんな宿沢が監督就任要請を受けたのは89年2月、スコットランド戦の約3カ月前のことだった。

 誰も「勝てる」とも「勝とう」とも思っていない。だが、宿沢は違った。試合に向けての相手チームの情報収集や分析は誰でも行うが、銀行員としても一流だった宿沢が凡人と違うのは、それを“徹底的”に行ったことだ。典型的なエピソードとして伝えられているのが、スコットランドが試合前日に行った非公開練習。日本チーム関係者は当然、見ることはできない。それならばと、宿沢はグラウンドを見渡せる近接の高層ビルの1室から双眼鏡で観察した。指揮官の勝利への情熱は、選手に伝わる。相手の防御の弱点と、攻撃を止める具体的な作戦を授け、「勝てる」と熱く語りかけ、選手をその気にさせた。まさに、指揮官の情熱がもたらした金字塔だった。

 宿沢はその後、91年ワールドカップ(W杯)まで指揮を執り、日本のW杯での唯一の勝利を挙げた。銀行員としても第一線で活躍する傍ら、2000年12月から約3年間は、日本協会の強化委員長として03年から始まった日本ラグビー界初の社会人全国リーグ「トップリーグ」の創設や日本代表選手の有給化など、プロ化が進む世界ラグビーの潮流に追いつくための態勢を整える中心的役割を担った。

 ラグビー界でもビジネス界でも、欠くべからざる人材としてさらなる活躍を期待された宿沢だが、06年6月、登山中に心筋梗塞を発症し、55歳の若さで帰らぬ人となった。日本ラグビーは、宿沢の遺産ともいうべくトップリーグを中心に強化を進め、徐々に世界との差を詰めつつある。再び、伝統国を破る日を目指して…。=敬称略(謙)