次世代に伝えるスポーツ物語一覧

陸上・円谷幸吉

 メキシコ五輪を9カ月後に控えた1968年1月9日、埼玉県朝霞市の自衛隊体育学校の宿舎で、1人の男性が自殺した。男性の名は円谷幸吉。1964年東京五輪のマラソンで銅メダルを獲得した国民的英雄の死は、社会に大きな衝撃を与え、選手の指導育成態勢を含めた五輪への取り組み方を見直すべきとの議論までを巻き起こした。
 初の日本開催で国中が夢中になった東京五輪。最終競技のマラソンに出場した円谷は2位で国立競技場に戻ってきたが、最後にヒートリー(英国)に抜かれ、3位に終わった。それでも、陸上競技が五輪でメダルを獲得したのは1936年ベルリン大会以来、28年ぶり。一躍時の人となった円谷は、次の目標をメキシコ五輪での金メダル獲得に定めた。
 だが、その後は不幸が次々と円谷に襲いかかった。1966年には信頼を寄せていたコーチも配置転換で、円谷のそばを離れ、予定されていた結婚も破談に。翌年には持病の椎間板ヘルニアに加え、アキレス腱切断の故障も起き、8月に手術。3カ月の入院生活を経てトレーニングを再開したが、体が元に戻ることはなく、「メキシコで金メダルを」との目標は遠のいた。

  「父上様、母上様 三日とろろ美味しゅうございました。
  干し柿、もちも美味しゅうございました 。
  幸吉はもうすっかり疲れ切って走れません 。
  何卒お許し下さい。
  気が休まる事もなく、 御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
  幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。
  メキシコオリンピックの御成功を祈り上げます。」

 死に際し、円谷はそう書き遺した(一部抜粋)。真面目で人一倍責任感が強い性格が、遺書から読み取れる。自殺の原因についてはノイローゼ説など、様々な解釈がなされたが、三島由紀夫は産経新聞1968年1月13日付夕刊への寄稿で、「円谷選手の死のような崇高な死を、ノイローゼなどという言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きている人間の思い上りの醜さは許しがたい」とした上で、「自尊心による自殺」(「円谷二尉の自刃」産経新聞1月13日夕刊)と唱えた。

 円谷の故郷である福島県須賀川市では、1982年から円谷幸吉メモリアルマラソン大会を開催している。第2の円谷誕生の願いを込めて。=敬称略(謙)