次世代に伝えるスポーツ物語一覧

野球・石井藤吉郎「野球は楽しむもの」

 「寒いから、きょうは練習をやめよう」。昭和39年2月、東京六大学で6季連続Bクラスにあえいでいた母校・早大野球部の再建を任された石井藤吉郎は、選手との初対面の場でこう言い放った。その後の練習でも「やりたいポジションがあれば、やればいい。野球は楽しむもんだ」―。
 猛練習に明け暮れながら結果を出せず、ガチガチに委縮し、苦しんでいた選手たちはどんなに救われ、気持ちを和らげたことか、「野球は楽しむもの」。忘れかけていた原点に立ち戻ったチームはよみがえった。こうして同郷の大先輩、飛田穂洲に懇請されて監督に就任した石井は、個性を伸ばす抜群の人心掌握術で就任早々に母校を優勝に導く。
 「僕は選手を枠にはめることが嫌い。短所を指摘するより長所を伸ばす方が、本人にもチームにもどんなにプラスになることか」
 豊臣秀吉の幼名と同じことから、ニックネームは「関白」。5歳のときに母親を結核で失うが、その母の“遺言”がその後の人生を決定づけた。療養先近くには水戸商のグラウンド。そこで白球を追う球児たちを見て、母は「関白がここで野球をやる姿を見たい」と言い残して他界した。成長の過程でその思いを聞かされた石井は、水戸商、そして早大へと進み、野球人生を歩んでいく。
 だが選手生活には戦争が影を落とした。水戸商時代は身長181センチの全国屈指の大型左腕投手として注目を集めたが、甲子園出場は“幻の大会”と呼ばれる昭和17年夏の1回だけ。なぜ「幻」と呼ばれたか。戦争の影響で前年に「全国的な運動競技」の開催中止命令が出され、昭和16年の全国中等野球大会(現高校野球)は中止に追い込まれた。ところが、翌17年、士気高揚を目的に従来の新聞社主催でなく、文部省主催として行われたために大会史には残っていない。この大会で石井は、優勝した徳島商と準々決勝で対戦し、0-1と惜敗したのだが、その約2カ月後の10月、当時ならではエピソードといえるが、国体にあたる競技会の手榴弾投げの部に出場し、優勝を果たしている。
 翌年、早大に進学したがすぐに応召、敗戦、そして2年間のシベリア抑留…。復員後、早大に復学し、主砲として前年最下位だったチームをここでも優勝へと導いた。昭和25年には主将として春秋連覇、春には首位打者を獲得。卒業後は大昭和製紙に入社し、都市対抗野球でも全国制覇を遂げた。早大卒業時や社会人時代にプロ球団から誘いを受けたが、アマチュア野球一筋に歩み、平成7年に野球殿堂入り。その人懐っこい笑顔、明るく飾らない人柄はまさに豪放磊落。教え子からは「オヤジさん」と慕われ、10年間に渡る早大監督時代の教え子たちは、藤吉郎の名前にちなんだ「藤球会」を作り、毎年12月、石井が家業とした茨城・大洗のホテルに集まり、「オヤジ」を囲み続けた。=敬称略(昌)