柔道・嘉納治五郎
戦後、日本復興の原動力となった昭和39年の東京五輪。日本は2度の冬季五輪を含めてこれまで3度五輪開催地を務め、アジアにおけるオリンピック・ムーブメントの先駆けとなった。遡ること約70年、“幻”の東京五輪(昭和25年)の招致の立役者となったのが、アジア初の国際オリンピック委員会(IOC)委員、嘉納治五郎である。
嘉納は明治15年、講道館を設立し、柔道の普及に努めた。その後、筑波大の前身、東京高等師範学校長や大日本体育協会の初代会長を歴任し、「日本体育の父」と呼ばれる。多忙を極めた嘉納に42年、新しい肩書きが加わった。近代オリンピックの父、クーベルタン男爵の意を受けてIOC委員に就任。教育者としての嘉納は五輪の理念は講道館柔道の理念にも通じる、との思いから「アジア初」の五輪開催に後年を捧げた。
日本は、昭和7年のIOC総会で五輪開催地に立候補した。8年後は「日本書紀」の皇紀で2600年に当たる節目の年で、記念イベントの目玉として、東京開催を目指したのだ。そのときのライバルはローマとヘルシンキ。説得の結果、ローマは辞退し、11年のIOC総会でヘルシンキも退け、東京開催が決定した。「アジア開催によって五輪を欧米だけでなく、世界のものにすべきだ」「日本ほど熱心に大会に参加している国は世界中でも少ない」という嘉納の招致演説は、日本開催に大きく貢献した。
だが、日本に「国際情勢」というもう一つの敵が立ちはだかった。満州国建国の承認をめぐって国際連盟から脱退していた日本への批判は、12年の廬溝橋事件で最高潮に達した。11年のベルリン五輪で「スポーツと政治」が一体となった現実もあり、国際世論は日本開催返上へ傾いていった。
そんな中、13年3月にカイロで開かれたIOC総会で日本の五輪開催の是非が問われたが、嘉納は日本開催と各国参加を繰り返し主張し、最終的には日本開催が認められた。とはいえ、各国の日本開催批判は相当のものだったようだ。「今度の会議はいかだに乗っているような気持ちだった。突き飛ばして来る人もあれば、足を持って引きずり落とそうとする者がいる。我々は水中に落ちないように頑張って、やっと対岸にたどり着けた」。嘉納はこのときの苦労をこう語っている。
しかし、嘉納の帰国を待ち望んでいた関係者らが嘉納の肉声で吉報を聞くことは叶わなかった。同年5月、嘉納はカイロからの帰路の氷川丸船中で急死した。その2カ月後、日本は戦争激化により開催を返上。嘉納がまさに命を懸けた東京五輪の夢は消えた。
しかし、嘉納の思いは“幻”から24年後の東京五輪で結実する。嘉納が普及に尽力した柔道も東京から正式競技になった。
今夏の北京五輪は東京、ソウルに続き、アジアで3回目の夏季五輪となる。今年は嘉納没後70年でもある。敬称略=(有)