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野球・松永怜一 執念の金メダル

 1984年ロサンゼルス五輪で公開競技として実施された野球。金メダルを手にしたのは、東側諸国のボイコットで急遽、出場権を手にした日本だった。準備期間は短く、食事も満足に採れない状況で、勝利への執念が実を結んだ結果だった。
 日本が五輪出場権を獲得したのは、本番まであと40日に迫ったときだった。83年アジア予選で同率で並んだチャイニーズ・タイペイとのプレーオフに敗れ、一度は五輪を逃していた。が、ソビエト(当時)やキューバのボイコットで国際連盟から推薦を受け、出場することになったからだ。
 すぐに日本連盟は、77年に9カ国が参加して行われたワールド・スーパーカップ野球大会で日本を3位に導いた松永怜一を監督に指名した。松永はその大会で米国選手が「体ごとボールにぶつかり、攻守に全力疾走をする姿」を見て基本の大切さを痛感した半面、日本選手が閉会式で3位にもかかわらず、笑顔でビデオ撮影する姿に、「日本人特有の負けず嫌いな粘り強い精神力を引き出さなければならない」と実感していた。
 監督就任から五輪まで、残された時間はわずか。いかにチームを“戦闘集団”としてまとめるか、松永は「決勝まで戦える体力を持った平均22・5歳の若い選手をあえて選び、目標に向けこれ以上ないくらい綿密な計画を立てた」と振り返る。4回の合宿では、「打ったら全力疾走を怠るな」など、当然だからこそ怠りがちな基本を徹底させるとともに、毎晩ミーティングを行った。そして迎えた五輪には「やり残したことが全くなかった」と満を持して乗り込んだ。
 ところが、大会期間中にも思わぬ苦難が待っていた。ナイター試合の後、ドーピング検査を終えて夜遅く選手村へ戻った選手に残されていたのは、目玉焼きぐらい…。現地の日本企業が差し入れてくれたすしで補った。さらに選手村にはミーティング室がなく、娯楽室でビリヤードに興じる外国人に背を向けて話し合った。決勝前夜には娯楽室の電気がつかず、月の光を頼りに屋外でミーティングを行わざるを得なかった。
 それでも、決勝では、全員が後に大リーグの球団から上位指名を受ける並はずれた体格とパワーを持つ米国選手を相手に奇跡の逆転劇を演じた。会場のドジャースタジアムに詰めかけた6万人近くの観客の大半が米国を応援する中、日本は3回裏に先制を許したが、4回表に明大4年の広沢克己の適時打などで逆転に成功。6―3で勝利した。
 選手は逆境の中で、真の強さを身につけていったのかもしれない。決勝前夜のミーティングで、松永は「ここまできたらもう何も言うことはない」と語りかけたとき、「月に光って輝く選手の目を見て、勝利を確信した」という。表彰式で金メダルを首にかける選手の姿を見て、「これで日本の野球界と国民に喜んでもらえる」と胸をなで下ろした指揮官は同時に「勝負はハングリーさがなければだめだ」と改めて痛感していた。その後、松永は07年に野球殿堂入りを果たす。そしていまもなお後進の指導に力を注いでいる。=敬称略(み)