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野球・“努力の人”山本和範

 1999年9月30日。福岡ドームで行われたプロ野球、ダイエーホークス(現ソフトバンクホークス)-大阪近鉄バファローズ(2004年で球団消滅)戦。九回表二死から打席に入った近鉄のベテラン打者に、両軍のファンからドームを轟かすような声援が響いた。男の名は山本和範。そのシーズン限りで球団から契約を解かれることが決まっており、これが最後の打席だった。
 山本は76年、戸畑商(福岡県)から投手として近鉄に入団した。直後に投手失格の烙印を押され打者に転向したが、思うような結果が残せず、6年後に解雇。それでも、野球をあきらめなかった。大阪府内のバッティングセンターでアルバイトをしながら、営業時間が終わるとともに自分のバットを持ち出し、打撃練習にいそしんだ。そして、その姿がたまたま南海ホークス(ダイエーホークスの前身)の関係者の目にとまる。「給料は10円でもいいから、自分を雇ってくれ」。プライドを捨て、頭を下げる男の熱意に南海は、翌年、チームに受け入れた。
 人並みはずれた努力で、才能は花開していった。84年にレギュラーに定着すると、86年には26本塁打。94年には当時オリックスに在籍したイチロー(現マリナーズ)に次いで、打率3割1分7厘でパリーグ2位。人気、実力ともにスター選手にのし上がった。
 だが95年、そんな努力の男を不運が見舞う。けがに見舞われ不本意な成績に終わると、ダイエーからクビを言い渡された。運良く声をかけてきた球団があったが、それはかつて自分をクビにした、近鉄だった。
 逆風の中、山本は再びはい上がる。移籍1年目から打ちまくってレギュラーを奪うと、オールスターに選ばれた。そしてその第1戦。昨年、自分を捨てたダイエーの本拠地・福岡ドームでの試合に、六回に代打で登場すると、決勝の3点本塁打をたたき込んだ。「古巣で打てましたね」。試合後のヒーローインタビューでアナウンサーからそう問われると、両目に涙が光った。
 引退試合のシーンに戻る。マウンドに立つのは、その年、14勝無敗と驚異的な成績を収めていた23歳の篠原貴行だ。対する山本は41歳。打てるはずがない。だが、うなりを上げる速球を、山本は野球人生すべての思いをかけて振り抜いた。舞い上がった打球はぐんぐん伸び、ライトスタンドに消えた。「努力」を信条に生き抜いた男が、最後にみせた奇跡。ファンは涙を流し、両軍のベンチは総立ちで拍手を送った。
 捨てられるたびにはい上がり、ファンの記憶に強烈な印象を焼き付けた山本。右耳が聞こえないハンディがあったことも、付記しておく。=敬称略(国)