バレーボール・松平康隆「負けてたまるか」
2008年6月7日。日本で行われた世界最終予選で、アトランタ五輪以来16年ぶりに五輪出場を決めた男子バレーボール。人気も実力も女子に大きく水をあけられた男子チームの面目躍如となった。指揮官の植田辰哉は試合直後のインタビューで開口一番、「私が尊敬するおじいちゃんのような松平(康隆)名誉会長、お父さんのような大古(誠司)さんに厳しく優しく支えられた。そのイズムを引き継いで勝てたことが一番嬉しい」と言って2人の先達を讃えた。62年に男子チームのコーチに就任し、指導者として3度の五輪出場を果たした松平も、「3年前に死にかけていた男子バレーが、植田の人間教育で生き返った」と後輩をねぎらった。
振り返れば、松平がコーチを務めた64年の東京五輪でも男子は銅メダルを獲得したが、話題は「東洋の魔女」と呼ばれた女子チームの金メダルに集中し、あまり注目されなかった。後に事務方の手違いであったことが明らかになったものの、試合終了後の祝賀会に呼ばれなかったほど存在感は薄かった。
翌年、監督に就任した松平はこの屈辱を発奮材料に変え、男子チームの大改革に取り組む。東京五輪の銅メダルから「8年計画」を立て、バレーの専門家だけでなく、運動生理学や心理学のエキスパートにも教えを請い、逆立ち歩きやトランポリンも練習に取り入れた。
創造力豊かな練習方法は多くの新技をもたらした。有名なのは、チームの柱、森田淳悟が編み出した一人時間差。大学の練習時に後輩がトスミスし、動きを止めてからスパイクを打ったときに相手のブロックを外せる、とのひらめきから生まれた。そのほか、今ではおなじみとなったAクイックやBクイックの速攻やコンビバレーを完成させていった。松平自身も旧ソ連に留学してナショナルチームの元監督に弟子入りしたり、英語やチェコ語を習得したりと自己研鑽に励んだ。
チームはまず4年後のメキシコ大会(68年)で銀メダルを獲得し、いよいよ金メダルへの挑戦。実写とアニメを組み合わせたドキュメンタリー番組「ミュンヘンへの道」を作って若者ファンを多く取り込み、自著『負けてたまるか』では「銀も銅もいらない。金をどうしても取りたい」と執念を書き綴った。
満を持して迎えたミュンヘン大会(72年)。決勝トーナメントではベテランの南将之、中村祐造が軸となり、準決勝のブルガリア戦で3-2と奇跡的な逆転勝利へと導いた。東ドイツとの決勝でも第1セットを先取された後に投入された南がサーブで相手守備を崩し、エース大古誠司らの強打を引き出して、3-1で勝利。「金メダル」の有言実行を果たした。
「松平イズム」の継承者となる植田も「メダルを狙う」と高らかに宣言した。ミュンヘン五輪以来メダルから遠ざかり、下降の一途をたどる男子バレーの復権なるか。今夏の北京で、答えが出る。=敬称略(有)