次世代に伝えるスポーツ物語一覧

レスリング・石井庄八 戦後日本初の金メダル

 戦後、日本が初めて参加した五輪、1952年ヘルシンキ大会。12競技72選手が参加したこの大会で唯一の金メダルをもたらしたのがレスリング・フリースタイル・バンタム級の石井庄八だった。以降、レスリングは2004年アテネ五輪まで、日本が不参加だったモスクワ五輪を除き、一度も途切らせずにメダルを繋いできた。石井は“お家芸”とまで言わしめたレスリングの礎を築いたトップバッターだった。
 とはいえ、向かうところ敵なしの大本命だった訳ではない。千葉市に生まれ、中学時代に柔道の猛者で鳴らし、予科練を経て、終戦とともに中大に進学、レスリングと出合ったのだが、何度挑んでも全日本の4〜6位どまり。どうしても越えられない“壁”に、酒に浸る日々もあったという。
 そんな石井を飛躍させたのが米国遠征だった。五輪前年の51年2月から5月末までの3カ月間に及ぶ米国での“武者修行”。ここで団長の八田一朗から「タックルを左右どちらからも出すように。左右平均して技を出すということだ」とのアドバイスを受けたことがきっかけとなった。冷静に考えれば、当たり前の基本。だが、石井にとっては目からウロコの思いだったのだろう。これを機に、遠征中の戦績は23戦して21勝1敗1分け。大きな自信を得て、石井はさらにレスリングに打ち込んでいった。
 五輪決勝のちょうど1年前にあたる51年7月23日をもって禁煙し、その年の除夜の鐘とともに禁酒。刺激が強いという理由から、コーヒーやカラシのたぐいも断ち、すべてをレスリングに捧げていく。そうして臨んだヘルシンキの舞台。石井は順調に勝ち進み、決勝で本命のマメドベコフ(当時ソ連)と対戦する。一進一退の攻防の末、終了間際の連続タックルが決定的なポイントとなり、ついに金メダルを手にした。
 「その頭脳的な試合ぶりは驚嘆に値する…フィンランドの選手たちはソ連選手にぞうきんのように振り回されたが、石井はこの東方の巨人国(ソ連)の選手に同じような待遇を与えた」。地元新聞が石井に贈った最大級の賛辞だった。北欧の空に揚がる日の丸に「とめどなく涙が流れ、私も一緒に天に昇っていくような気がした」。こう語った石井。「心血を注いだ道に悔いを残すまい」と決意し、やり遂げたからこその感想だった。
 2005年。陸上の世界選手権がヘルシンキで開催され、52年の五輪の際、レスリングや体操の会場として使われた体育館がメーン・プレスセンターとして使われた。入り口近くには五輪マークとともに記念のプレートが掲げられ、メダリストたちの名前の中にはもちろん戦後日本初の金メダルを獲得した石井庄八の名前も刻まれていた。=敬称略(昌)