次世代に伝えるスポーツ物語一覧

陸上・織田幹雄 日本初の金メダル

 まだコーチのいない時代。頂点を極めるにはいま以上に自ら考え、工夫しなければならなかったろう。五輪で日本初の金メダルをもたらした織田幹雄はまさに好奇心旺盛で、「いかにうまくなるか」を突き詰めた一人だった。
 1928年夏。決戦の舞台、アムステルダムに滞在していた日本陸上チームはくつろいだ日々を送っていた。前回パリ大会を経験していた当時23歳、早大生の織田が意図的に作り出した雰囲気だったという。理由はあった。パリ大会で五輪に初出場した織田は、三段跳びで6位に入賞したものの、得意の走り幅跳びでは予選を通過できなかった。40日間近くに渡る船旅での調整不足はもちろん、初めての五輪の雰囲気にのまれたことが原因。そのときの教訓を生かしたのだった。
 そればかりではなく、織田にとってパリ大会は、いろんな面で糧となる大会だった。三段跳び自体も本で読んだ程度の知識しかなく、跳び方や練習方法も満足に知らなかったが、パリ大会で実際に欧米選手のやり方を見、話を聞くことによって我流で身につけていく。ライバルたちから学ぶ絶好の機会となったのだ。
 独創的ともいえる発想もあった。アムステルダム大会前には歌舞伎の劇場にも足を運んで「あの素晴らしい舞踊の動きを応用できないか」と研究を重ねた。努力はもちろんのこと、こうした好奇心と工夫が織田を支え、それは後進の指導にも生かされていく…。
 こうして迎えた8月2日。織田は1回目に15メートル13をマークすると、2回目には15メートル21まで記録を伸ばした。結局、外国勢はだれも追いつけず、この2回目の跳躍が優勝記録となる。五輪史上初の日本人金メダリストの誕生。東京・国立競技場にはこのときの記録を記念して15メートル21のポールが立っている。
 表彰式。織田はフィールドの中でメーンポールに揚がる日の丸を見上げた。それは2位米国、3位フィンランドの国旗の4倍はあろうかという代物だった。それもそのはず。そもそも「もし織田が優勝したら、これで包んでやれ」と役員が持参した大きな日章旗だったという。=敬称略(昌)