次世代に伝えるスポーツ物語一覧

ボクシング・坂本博之 「きっと変われる」

  ボクシングの聖地・後楽園ホール。男同士の命がけの殴り合いを見に来る観客は、やはり風貌(ふうぼう)のいかつい男性が多い。鋭い眼光でリングを見つめ、ときに容赦のないヤジが飛ぶ。それが、聖地の文化である。
 だが2007年1月6日。この日だけは様相が一変した。メーンイベントにリングに立った男に、子供たちのかわいらしい声援が飛ぶ。「坂本兄たんがんばれ!」。元東洋太平洋ライト級王者、坂本博之の引退試合だった。
 福岡県出身の坂本。幼いころに両親が離婚し、親類宅に預けられた。ろくな食事も与えられず、弟の手を引いて、近くの池でザリガニや貝を捕まえて、たき火で焼いて腹を満たした。栄養失調に近い状態。小学校3年で児童養護施設「和白青松園」に入所したその日、初めて食べた汁物のうまさを、今でもはっきりと覚えている。名前は「ぶらじる」。慌てて食べて豚汁を聞き間違えたのだが、しばらく後まで「ぶらじる」と信じ込むほど、飢えていた。
 プロデビュー後、強烈な左フックでKOの山を築き、「平成のKOキング」と評されるほどの人気選手になった。同時に、年に数回、和白青松園を訪問し、子供たちとのふれ合いを始めた。
 4度目の世界挑戦で畑山隆則に敗れた後、施設の子供たちは口々に畑山の悪口を言い始めた。だが、坂本は施設を訪れ、こう諭した。「僕たちは正々堂々と戦った。だから畑山選手を悪く言っちゃいけないよ」。そしてこう続けた。「どんなことでもいい、みんなも何か好きになれるものを見つけて欲しい」。「不遇」という運命に勝って欲しい。施設から巣立った先輩としての、最大限のエールだった。 
 引退試合。顔面を切り、鮮血をしたたらせる坂本。6回終了時、試合をストップしようとしたレフェリーにこう言った。「もう1回だけやらせてくれ」。観客席に招待した施設の後輩たちに、伝えたいものがある。パンチを浴びながら、最後まで前へ出続けた。
 引退した今、全国の児童養護施設を巡り、ボクシングを教えている。暗い表情の子供たちが、体を動かしながら徐々に笑顔を取り戻す。坂本は心の中でこうつぶやく。
 「きっとみんな、変わることができるよ」と。=敬称略(国)