次世代に伝えるスポーツ物語一覧

サッカー・「清水三羽烏」

 1993年は日本サッカーにとって極めて歴史的な年だ。5月15日にプロサッカーリーグ「Jリーグ」が開幕し、一気にサッカーをメジャースポーツに押し上げた。初年度の参加数は10チーム。Jリーグの前身、日本リーグ(JSL)時代の名門クラブが名を連ねた中、清水エスパルス(現在静岡市)だけが企業チームを母体にしない純粋な地域クラブだった。そして元祖「サッカーのまち」の誇りと熱意がつくり上げた市民クラブに「清水三羽烏」が帰ってきた。
 「清水三羽烏」とは、1980年代初頭、高校サッカーをにぎわせた清水東高校のFW長谷川健太、MF大榎克己、DF堀池巧の3選手のことだ。3人の出会いは小学4年生のとき、清水市内の選抜サッカーチーム「清水FC」時代にさかのぼる。3人を育てたのは、当時市内の教諭で現日本サッカー協会理事の綾部美知枝。綾部は「サッカーを通じて、誰にとっても好かれる選手を育てたい」という信念の下、監督として厳しく指導した。長谷川は「ある意味では母親だったし、どんな先生より怖かった。いろんな意味で尊敬している」と述懐している。
 3人は清水FCで練習を続けながら、そろってサッカーの名門、清水東高校への進学を決める。清水東高時代は2年の高校選手権で見事に優勝し、翌3年こそ準優勝に終わるが、日本中に「清水三羽烏」の強烈なイメージを残した。
 高校卒業後、長谷川は筑波大→日産自動車(現横浜F・マリノス)、大榎は早稲田大→ヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)、堀池は順天堂大→読売サッカークラブ(現東京ヴェルディ)と別々の道に進みながら、3人とも日本代表に選ばれ、それぞれのチームで中心選手として活躍していた。
 しかし、1991年2月、3人は大きな岐路に立つ。故郷・清水にプロサッカーチームが誕生するという報を聞いたのだ。母体となる企業は持たず、経済的には不安要素も大きかったが、5カ月後、大榎が「(清水は)僕のサッカーの原点」とプロ契約第一号として移籍を決めた。前年に右膝の手術をした長谷川も一から出直すつもりで日産を退部し、大榎に続いた。翌年5月、当時日本一強かった読売クラブでの居心地の良さに未練を残しながら、「清水でサッカーをするのがあこがれだった」という思いが勝った堀池も加わり、10年ぶりに「三羽烏」の再結成となった。他の静岡県出身選手の多くも「清水のために」と加入。まさに地元民の「夢」がかなった。
 現在、長谷川はエスパルスのトップチームの監督、大榎はコーチを務め、名解説がすっかり板についた堀池はサッカー解説者として、三者三様の道を歩んでいる。再び「清水三羽烏」が集結する日、その時はいつだろうか-。=敬称略(有)