次世代に伝えるスポーツ物語一覧

野球・江川卓 引き際の美学

 広島カープの若き主砲、小早川毅彦の打球が広島市民球場のライトスタンドに消えた瞬間、その1球を投じた男は、力なくマウンドにへたり込み、しばらく立ち上がれなかった。1987年9月20日、巨人-広島戦。巨人のエースとして君臨した江川卓が、引退を決意した瞬間だった。
 作新学院(栃木)時代から、豪腕として名を馳せた。ノーヒットノーラン9度、完全試合2度。150キロを優に超える速球で三振の山を築き、「怪物」の称号を欲しいままにした。73年夏の栃木県大会では、5試合で被安打2という高校生離れした力量を見せつけた。横浜高の松坂大輔(大リーグ・レッドソックス)、東北高のダルビッシュ有(北海道日本ハム)ら、平成の怪物投手と比しても、江川にはかなわないと評価する関係者も多いほどだ。
 生き様には賛否もつきまとった。73年の高校卒業時と、77年の大学卒業時にプロからドラフト指名を受けるが、巨人入りを熱望し拒否。翌78年のドラフト会議前日に、野球協約のルールの隙間をついて、強引に巨人と契約。あまりの暴挙に当時のマスコミはこぞって巨人と江川を非難し、「空白の一日」「江川事件」として記憶されることになった。わがままを押し通す行動を「江川る」などと呼ぶ造語も生まれた。
 81年には20勝6敗で最多勝。84年のオールスターでは8者連続三振という離れ業を演じ、「怪物」の名はプロでも色あせなかった。引退した87年も結果的には13勝を挙げ、エースにふさわしい活躍をしている。
 なぜ、引退を決意したのか。江川は後に、あの1球をこう語った。場面は1点をリードした九回裏二死一塁。小早川は売り出し中の若手だが、法大の後輩でもある。先輩のプライドと自信を持って、「打てるものなら打ってみろ」と投じた、ど真ん中の直球。しかし、バットが空を切るイメージはもろくも崩れ、白球は遙か彼方にはじき返された。
 怪物が、普通の人間を自覚した瞬間。「まだやれるじゃないか」との周囲の声は、江川には意味をなさなかった。「自分にとって、最高のボールだった。だから…」。プライドがあるからこその、引退。この男らしい、引き際の美学だった。=敬称略(国)