競泳・鶴田義行 日本人初の五輪連覇
北京五輪では、日本競泳界のエース、北島康介の男子平泳ぎでの2大会連続2冠への挑戦に注目が集まった。いまから80年前に日本競泳界に初の金メダルをもたらし、その4年後に日本勢初の五輪連覇を達成したのは、同じ男子平泳ぎの鶴田義行だった。
1928年アムステルダム五輪の男子二百メートル平泳ぎで、当時の世界記録保持者だったラーデマッヘル(ドイツ)との大接戦の末、2分48秒8の五輪新記録で、日本競泳陣として初の金メダルを獲得した鶴田だが、そこからの道のりは決して平坦ではなかった。翌1929年には2分45秒0の世界新記録を樹立したものの、すでに20代後半で年齢的にはすでにピークを過ぎていた。南満州鉄道に勤務する身では、納得のいく練習ができる環境を整えることも難しく、一度は引退を決意したこともあった。若手の練習相手のような立場に置かれ、1932年ロサンゼルス五輪では、関係者の期待も、鶴田ではなく、静岡・沼津商業の16歳、小池禮三の方に集まっていた。
そして迎えたロサンゼルス五輪。準決勝では、小池に遅れをとった。 だが、決勝で意地をみせる。ジータス(ドイツ)を小池とともに追う展開から、残り50メートルで抜け出すと、1位でゴールイン。日本人として初の五輪連覇という偉業に、日本中を歓喜の渦に巻き込んだ英雄は「苦しみから逃げる者は、永久にその苦しみに追われる。苦しみに自ら突入し、これを突破するものこそ、永久に楽を得られる」との名言を残した。
だが、勤務先の南満州鉄道では、五輪出場期間を欠勤扱いとされ、ボーナスをカットされたという。スポーツ選手の置かれた状況は、決して恵まれたものではなかったことを示唆する。
1940年代後半からは、愛媛水泳学校の設立、運営に尽力するなど、四国の地で水泳の底辺拡大に打ち込んだ鶴田は、1986年、82歳で死去した。だが、その勝負にかける気迫と水泳への情熱は、葉室鉄夫、古川勝、田口信教、そして北島康介と、日本男子平泳ぎ陣に、受け継がれている。=敬称略(謙)