次世代に伝えるスポーツ物語一覧

五輪と生きた男 フレッド和田勇

 1959年5月26日、西ドイツ・ミュンヘンで行われた国際オリンピック委員会(IOC)の総会で5年後に東京で五輪が開催されることが決定した。アジア初の五輪に、誰よりも喜びをかみしめた男がいた。男の名は、フレッド・和田勇。1907年9月18日生まれでカリフォルニア州に住む日系人で、ロサンゼルスに青果店を17店舗持ち、自称“野菜屋のおやじ”だった。
 東京五輪招致にあたって、交渉力があり日本語と英語が堪能という和田に、政府から『中南米のIOC委員(委員)13人の票を集める』という重大任務を要請された。日本は当時、第二次世界大戦での敗戦から14年しかたっておらず、交通網が未発達など戦争のつめ痕が残っていた。そんな国での五輪は夢のまた夢だったが、中南米の委員がすべて投票してくれれば、実現可能だった。
 和田は重責と知りつつ、快諾。自分の店を他の従業員に任せ、妻正子とともに約40日間で中南米の10カ国11都市を行脚した。交渉では委員だけでなく、その妻への気遣いも忘れなかった。今では考えられないが、高価な着物を委員の妻にプレゼントし、正子とともに写真撮影をしたり、チョコレートやビスケットを渡したりした。
 一方で、革命時で武装した兵士が出歩くハバナへも出向いたり、搭乗したプロペラ機がプロペラの片方を停止させたまま飛行して死を覚悟したり、正子が体調を崩すなど苦労が絶えなかった。
 それでも、最後まで行脚を続けたのは、1949年全米水泳選手権での思い出があったからだった。和田夫妻には古橋広之進などの日本の競泳陣を大会期間中、自宅に泊めたことがあった。外国勢に比べ貧相な食事しか採っていない日本選手が大健闘し、八百メートル自由形では古橋が従来の記録を15秒も縮める9分35秒5の世界新で優勝。和田の目からは大粒の涙がこぼれた。

 生活苦から4歳で両親と別れ、和歌山県の漁村にいた祖父母に預けられた。9歳で父の住む米国へ呼び戻されたが、兄弟が多く身の置き場がなかったため、12歳で家を出て働き始めた。米国では日系人だったことから戦争により“ジャップ”とさげすまされたこともしばしば。古橋らの活躍が、忘れかけていた日本人としての誇りを取り戻してくれたのだ。

 東京五輪は正子とともに来日し、観戦した。1984年ロサンゼルス五輪では金メダルに輝いた公開競技の野球の日本代表や柔道の山下泰裕を観戦。どちらの五輪でも大粒の涙が頬を伝った。「戦争に敗れて、四等国になったが、よう立ち直った。日本人は皆ようがんばった」。野菜屋のおやじの胸は祖国への思いでいっぱいだった。=敬称略(み)