陸上・三島弥彦
「第5回オリンピック大会(1912年8月、ストックホルムで開催)の予選会を行う。種目は百、二百、マラソン(当時は25マイル=40・2335キロ)。希望者は申し出るよう」。新聞に掲載されたこの国内予選会の募集記事が日本の五輪挑戦の始まりとなった。1909年(明治42年)に嘉納治五郎が国際オリンピック委員会(IOC)委員に選ばれると、日本の五輪参加が勧誘された。誘いに応えるために1911年、選手選出と派遣の母体として大日本体育協会が設立され、同年11月、羽田運動場で代表選考会を開催したのだった。そしてこの日本初参加の記念すべき五輪に派遣する選手を選考する国内予選会で、“スーパーマン”が登場する。東京帝大法科に在学する三島弥彦だった。
三島にしてみれば、力試し的な思いからの予選会への挑戦だったようだ。それでも結果は百メートルを12秒0で制すと、400メートルは59秒6、800メートルも2分19秒2で優勝を飾った。ただ代表に選ばれると、迷いが生じた。「駆けっこをやりに外国にまで出かけてよいものか…」。日本において五輪の価値、さらにはスポーツに対する価値観が確立していない時代だけに、迷いも当然だったかもしれない。それでも東京帝大総長・浜尾新らにに諭されて代表となり、翌年の五輪出場を果たす。代表選手はマラソンの金栗四三と2人。シベリア経由でストックホルムに向かい、7月6日、3万人の観衆が見守る中、開会式に臨んだ。三島を旗手とし、総勢6人での行進だった。
五輪では3種目に出場したが、決勝に進むことは出来なかった。百、二百メートルともに一次予選で敗退。四百メートルは予選4組2着(出場2人)で、準決勝に進んだものの、疲労困憊で棄権せざるを得なかったという。当時の日本人としては大柄な170センチを越える身長を誇り、東京帝大進学前の学習院では野球部のエース兼主将、ボートも一流で、柔道も有段者という猛者も、初めて参加した五輪で、世界の競技レベルの高さを痛感させられる結果となった。
事情もわからず出場した五輪。そこでの惨敗だったが、三島はこの洋行を通じて「スパイク」や「やり投げのヤリ」「短距離のクラウチングスタート」などを持ち帰り、陸上の技術向上に大きな役割を果たした。大学卒業後は横浜正金銀行(現東京銀行)の銀行マンとして海外勤務が長かったためか、スポーツの世界とは距離を置いたが、日中戦争ぼっ発時の青島(中国)支店長として、戦火が迫る中、最後まで責任を全うしたり、「人間とした曲がったことをするな」を子供たちへの教えにしたりと、1954年、68年の生涯を閉じるまでスポーツマン・マインドを持ち続けたという。=敬称略(昌)