次世代に伝えるスポーツ物語一覧

体操・小野喬、清子夫妻 元祖「メダリスト夫婦」

 走る妻をコーチとして支える夫、妻子の協力を励みに現役にこだわる夫・・・。オリンピックをめぐっては多くの「夫婦物語」が生まれる。トップアスリート同士が夫婦になったケースもあり、北京五輪では、陸上の朝原宣治が男子四百メートルリレーで史上初の銅メダルを獲得し、バルセロナ五輪のシンクロナイズドスイミング銅メダリストで妻の史子(旧制奥野)と20年越しで「メダリスト夫婦」を果たした。アテネ五輪では柔道の谷亮子が金、夫で野球に出場した佳知は銅を獲得して同一大会で共にメダリストとなり、大きな話題を呼んだ。
 今から遡ること44年。地元開催の東京五輪(1964年)で、すでに体操の小野喬、清子夫妻が同一競技でメダルを獲得するという偉業を成し遂げていた。
 夫、喬は「鬼に金棒、小野に鉄棒」と称されたほどの天賦の才能の持ち主。東京五輪は52年のヘルシンキ五輪、56年のメルボルン五輪、60年のローマ五輪に次いで4度目の出場だった。ヘルシンキの跳馬種目で銅メダルを獲得したのを皮切りに、メルボルンで金1個含む5個、ローマでは金3個を含む6個のメダルを獲得するなど長い間日本のエースとして君臨した。しかし東京五輪出場時は33歳。大会前から右肩を痛め、本番中も激痛が再発した。だが、痛み止めの薬を注射するなどして演技を乗り切り、体操男子団体で執念の金メダルをもぎ取った。
 一方の妻、清子はローマ、東京五輪の2大会に連続出場した。58年に喬と結婚し、一男一女の母となった清子は、ローマ五輪は「妻」として、東京五輪は「母」として臨んだのだ。もちろん体操界で初めてのママ選手だ。ローマ五輪後、引退を考えたが、体操協会の「若手が伸び悩んでいるから、もう一度練習してほしい」という声に押され、練習を再開した。「一番大変だったのは、練習に出かけるときに子供に泣かれたこと」と述懐するように、練習と育児の両立は容易ではなかったが、家族や周りの助けを借りながら乗り切った。喬からは競技に関するアドバイスをたびたびもらい、二人の会話の中心は常に体操だったという。そして満を持して臨んだ体操女子団体で、見事に銅メダルを獲得した。
 二人は東京五輪後、そろって引退し、体操を教える民間スポーツクラブを設立した。自分たちのクラブからオリンピック選手も出すなど、後進育成にも大きな役割を果たしている。「メダリスト夫婦」の“二人三脚”はこれからも続く。=敬称略(有)