体操・竹本正男
初めて日本体操界に五輪メダルをもたらしたのは32歳の苦労人だった。1952年(昭和27年)ヘルシンキ大会種目別の跳馬での銀メダル。表彰台に立った竹本正男にとって、自らではどうにも出来ない時代の流れに巻き込まれながらも、諦めずにひたすら夢を追ってきた努力が報われたときでもあった。
「体操の学校に進みたい」。ベルリン大会の熱気さめやらぬ36年、竹本は父の佐市にこう訴えた。旧制の島根県立浜田中学(現・浜田高校)5年生のときだった。まだ日本では体操がどういうものなのか、あまり知られていない時代、竹本自身も「鉄棒と跳び箱しか知らない」体操部員だったという。近所の理髪店のラジオで聞いた「前畑ガンバレ」という実況に、ただ「オリンピックに出たい」と思いが募ってのことだった。当然のように、父親は反対。それでも素質を見抜いた体育教師が粘り強く説得してくれて、日本体育会体操学校(現・日体大)への進学はかなえられた。だが、ここから夢を叶えるまでの道のりは長かった。
目標だった40年開催予定の東京大会は、全日本選手権に優勝し、代表に決まっていながら、迫り来る戦火の影響で大会が返上され、中止。さらに入隊までが待っていた。戦争中は約5年間中国大陸へ出兵し、46年3月に九死に一生を得て帰国。その後、竹本は故郷・島根で教職に就くつもりだったという。ところが、パージにかかった。失意の中、竹本は再び体操の道を志す。荷物を整理していたとき、「学生時代のトレパンが出てきたんです」。忘れかけていた夢、気持ちに再び灯がともった。
上京した竹本は6年のブランクを取り戻すべく、部屋の中にあん馬を持ち込み、夜中の1時、2時まで練習に励んだ。その努力の甲斐あって、全日本選手権を46年から6連覇。「オリンピックに出たい」という夢がようやくかなったとき、32歳になっていた。
「これが最初で最後のオリンピック」。こう思ったに違いない。ところが、56年メルボルン大会にも37歳で出場して団体銀に、種目別の銅が3個という活躍を演じる。そして41歳で出場した60年ローマ大会では、悲願の団体金メダルに、鉄棒の銀を獲得してみせた。
その後は、五輪の男子監督として「体操ニッポン」の礎を築き、日体大副学長、日本体操協会顧問などを務め、後進の指導に尽力し、2007年2月2日、体操一筋に生きた人生の幕を閉じた。87歳だった。=敬称略(昌)