次世代に伝えるスポーツ物語一覧

野球・蔦文也 「人生は敗者復活戦」

 1952年、28歳の青年が阿讃山脈と四国山脈に囲まれた徳島県立池田高校の野球部監督に就任した。蔦文也、のちに「攻めダルマ」と呼ばれ、その豪快な攻撃野球で、高校野球の常識を覆した名物監督だが、当時は徳島商業の元エースで甲子園経験があり、プロ野球にも所属していたことのある青年に過ぎない。だが、その野球経歴に地元の期待は高まった。ところが、のちの名声とは裏腹に、甲子園への道は遠かった。挑戦しては負け、挑んでは壁にはね返される日々。周囲の期待はいつしか批判へと変わっていく。それでもノックバットを振り続けた。「山あいの子らに1度は大海(甲子園)を見せてやりたい」。この思いが情熱を支えた。のちに酒を飲んだときなどに、蔦は「人生は敗者復活戦ぞ」とよく口にしたという。そして「ワシは負けることを少しも恥ずかしいとは思わん。ホンマに恥ずかしいんは、負けたことで人間がダメになっていくことぞ」(「阿波の攻めダルマ 蔦文也の生涯」富永俊治著、アルマット発行)と続けた。自らへの叱咤でもあったろう。
 そんな蔦は監督就任20年目の71年夏に、ようやく初めて甲子園への切符を手にする。そして蔦と池田高校野球部の名を全国に知らしめたのは、その3年後のことだった。
 74年春の選抜大会に、わずか部員11人で出場し、準優勝を飾ったのだ。「さわやかイレブン」。こう称えられたのだが、蔦は「(11人は)厳しい練習で部員が次々にやめていった結果。ワシは少しもさわやかではない」と振り返ったと聞く。何とも人間的な監督だった。およそ高校教師とは思えない、酒にまつわる武勇伝も多かった。勝っては祝い酒、負けてはヤケ酒。自らの弱さをもさらけ出して、ただただ必死にノックバットを振り続けた。そして選手11人で旋風を巻き起こしたこの年の夏の大会から高校野球に金属バットが採用されると、“攻めダルマ”の神髄、「攻めまくる野球」が開花した。練習時間は守備1時間に対し、打撃3時間。筋力トレーニングも積極的に導入した。その結果、生まれた「やまびこ打線」が82年夏、全国にその名をとどろかせる。蔦はバントのサインをほとんど出さない。「サインは打て」とばかりに、準々決勝では好投手の荒木大輔の早実に20安打を浴びせ、14-2で圧倒。広島商との決勝でも7連続安打を含む猛攻で12-2の大差で快勝した。続く83年春の選抜でも「やまびこ打線」の破壊力は衰えを知らず、史上4度目の夏春連覇を果たした。
 「ノックを思うように打てんようになったら、監督を辞める。ノックは監督と生徒との対話じゃけんのう」。常々、こう語っていたという蔦は、92年に監督の座を譲り、さらに引き継ぎの1年を経ると、チームの指導から潔く身を引いた。理由はもちろん「ノックが思うように打てなくなった」からだった。=敬称略(昌)