次世代に伝えるスポーツ物語一覧

馬術・西竹一


 「バロン(男爵)・ニシ! バロン・ニシ!」
 1932(昭和7)年8月14日、ロサンゼルス五輪最終日に行われた馬術の大障害飛越競技の結末には、誰もが驚いたに違いない。サンタアニタ競馬場を埋めた10万5000人の大観衆が見つめる中、頂点に立ったのは日本人、陸軍中尉の西竹一だった。五輪史上最も難しいといわれたコースでの快挙。それも大本命のチェンバレン少佐(米国)を大差で破っての栄冠は、日本にとって同競技で初の金メダル獲得だった。予想しえなかった結果に、大観衆は総立ちになり、冒頭の歓声がこだました。
 西は外相だった徳二郎を父に持つ男爵家育ち。学習院幼稚園から学習院初等科に進んだが、やんちゃで近隣の小学生とけんかを繰り返していた。その後、現在の日比谷高校を中退し、陸軍士官学校などを経て騎兵将校になった。
 ロサンゼルス五輪の“相棒”ウラヌスとの出会いは男爵家ならではといえるだろう。千葉県習志野市の陸軍騎兵学校に入学し、有能な外国馬を探しているときのことだ。前回の五輪で日本選手は貧弱な国産馬で出場し、最下位となっていたため、「だれも乗りこなせない癖のある馬がイタリアにいる」という情報をつかんだ西は現地にまで出向き、当時の金額で2万円もの大金を払って手に入れた。ウラヌスは体高1・8メートルもの巨馬で、気性も荒かったが、辛抱強く調教を続け、その圧倒的な跳躍力をわがものにすると、西は愛馬とともにヨーロッパ各地の馬術大会を転戦し、数々の好成績を残した。大観衆を驚嘆させたが、西にとってロサンゼルス五輪は満を持して臨み、そしてつかんだ金メダルだったかもしれない。
 世界の頂点に立ち、最高の栄誉をつかんだ西だが、4年後の36年のベルリン五輪では、競技中に落馬して棄権。その後は戦争の影が重くのしかかっていく。第二次大戦が始まると、戦車第26連隊長として北満州防衛の任に就いた。
 悲劇が訪れたのは、戦火が激化した44年。42歳の西が隊長を務める戦車第26連隊は本土防衛の砦となる硫黄島に向かった。その激戦の島で…、西の隊に遭遇した米軍将校は降伏を促したという。「バロン・ニシ、われわれはロサンゼルスのあなたを覚えている。尊敬をもって迎える」と。だが、西は頑として首を縦に振らず、ついには銃口を頭に当てて自決した、と伝えられている。
 硫黄島に赴く2日前にウラヌスと“最期”の別れをした西は、自決した際にも軍服にウラヌスの栗色のたてがみをしのばせていたという。そして、陸軍獣医学校の病馬厩舎にいたウラヌスも、まるで主人の後を追うかのように、西自決のわずか6日に息をひきとった。
 まさにウラヌスと「人馬一体」以上の関係を築いた西は、歴史に翻弄されながらも、その人生を精一杯走り抜いた。=敬称略(有)