競泳・古川勝
紀ノ川が導いた“縁”だったのだろうか。前畑秀子がベルリン五輪競泳女子二百メートル平泳ぎで金メダルを獲得した1936年(昭和11年)、和歌山県橋本市にある前畑家の近所に、1人の男の子が生を受けた。紀ノ川で水に親しみ、川底まで潜ってはうなぎを取っていたという少年は、橋本中学に入学して水泳部に入部。中学の校内水泳大会に平泳ぎで優勝したのを見ていた前畑が「平泳ぎに向いている」とアドバイスを送ったのがきっかけで平泳ぎに専念したという逸話もある。56年メルボルン五輪で競泳男子二百メートルを制した古川勝。まさに紀ノ川が生んだ2人目の金メダリストだった。
中学入学後、めきめきと頭角を現した古川は日大進学後も連戦連勝。55年の日米対抗では二百メートル平泳ぎで世界新を樹立し、金メダル候補筆頭でメルボルンに乗り込んで、見事に期待通りの結果を残した。プレッシャーに負けない精神面の強さもあったろうし、努力も人一倍だっただろう。ただもう一つ類い希な身体能力が世界の頂点へと導く要因であったことも間違いない。古川の肺活量は、一般成人男性の約2倍の6000cc近くもあったという。紀ノ川で磨かれたであろうこの能力を生かすために、考案したのが世界を驚嘆させた古川にしか出来ない「潜水泳法」だった。
もちろん外国勢も潜水を取り入れてはいた。だが、古川の比ではない。スタートして外国選手が20〜25メートル付近で次々に浮かび上がる中、古川はなおも潜水を続け、ようやく浮かび上がって来たのはなんと45メートル付近だったという。現在のように高地トレーニングといった科学的トレーニングの確立していない時代、紀ノ川に育まれた古川の能力はまさに群を抜いていた。五輪決勝でも終始余裕をもったレース運びで、ラストスパートで2位以下を突き放してゴール。タイムは2分34秒7。同僚の吉村昌弘が2分36秒7で2位に入り、金銀独占を成し遂げた。
だが、国際水連はメルボルン五輪を最後に、潜水泳法を禁止するルール改正を行い、スタートとターンの前後のひとかきを除き潜水すること自体が禁止されてしまった。健康上の理由など、禁止についてのもっともな理由はあるが、古川のあまりの強さが決定を早めさせたといえなくもない。
古川は、現役を退いた後も、若いスイマーの育成に情熱を捧げたが、93年(平成5年)11月、肺がんのため57歳で他界した。「病気に負けるはずがない」と、直前まで携帯用の酸素ボンベを手にプールサイドに立ち、子供たちを指導していたという。郷里の先輩・前畑より2年も早い死だった。=敬称略(昌)