次世代に伝えるスポーツ物語一覧

競泳・山中毅


 「もう銀メダルはいらない」。1960年(昭和35年)のローマ五輪に臨む山中毅の胸中には何としても頂点に立ちたい、という思いがあったに違いない。4年前、輪島高3年のときに頭角を現し、メルボリン五輪に出場したばかりか、初めての大舞台にもかかわらず、四百、千五百メートルで銀メダルを獲得してのけた。そしてこのときに金メダルに輝いたのが同年齢のマレー・ローズ(オーストラリア)だった。以来、2人は好敵手として互いに世界新をマークするなど、勝ったり負けたりの熱戦を繰り広げてきた。それだけに雪辱に燃える思いは強かったろう。
 実際、メルボルン以来、山中は必死で粗削りだった自らの泳ぎを磨いた。早大に進学後、小柳清志コーチと寝食をともにし、ローマに向けた取り組みはまさに二人三脚。その成果だろう。前年の59年には四百メートルで4分16秒6の世界新を樹立し、日米対抗でも特別参加したローズに圧勝。「四百メートルは絶対に勝てる」。自信もつかんでいた。ところが、レースに向けて気持ちと体のバランスを研ぎすませていく最後の最後で、ほころびが出る。信頼する小柳コーチが日本水連の五輪コーチ派遣枠から外れてしまい、最終調整が山中個人に委ねられた。さらに「優勝候補」という重圧も一人で背負わねばならなくなった。ローマへの出発前、小柳コーチから調整スケジュールのメモは渡された。だが、自らでは、気持ちがはやってしまい、どうしても追い込み過ぎる。実際、ピークはレースの1週間前に来てしまったという。
 最終調整の失敗。ピークを合わせられなかった山中は、四百メートルで再びローズの後塵を拝する2着。千五百メートルではメダルにも届かない4位に終わった。結局、五輪に3度出場した山中は、ローマでの八百メートルリレーを含めて銀メダルを4個も獲得した。だが、必死で追い求めた金メダルにはついに届かなかった。無念の思いはいかばかりだったろう。金メダルへの思いは後輩に託さざるを得なかったのだが、男子自由形での日本勢のメダリストはこのローマ以来、まだ出ていない。=敬称略(昌)