フィギュア・荒川静香
プッチーニの歌劇「トゥーランドット」の音楽に乗り、スピン、イナバウワー、3-2-2回転のジャンプを次々と繰り出し、ノーミスで演技を終えたとき、日本スケート界に新たな伝説が生まれた。2006年トリノ冬季五輪。「メダル5個」の目標を掲げて大会に臨んだ日本選手団だが、終盤を迎えても獲得メダル数はゼロ。惨敗に終わりそうな雰囲気を一掃したのが、フィギュアスケート女子で、日本初の金メダルをもたらした荒川静香だった。
小学3年生で3回転ジャンプを完璧にマスターし、天才少女として関係者の注目を集めた荒川は、宮城・東北高1年で96年長野冬季五輪に初出場。順調に成長を続けたかにみえた。しかし、スケートに気持ちを集中させることができない時期もあり、その後は低迷。2002年ソルトレークシティ冬季五輪は、代表から漏れ、1998年度以降は全日本選手権のタイトルからも遠ざかった。そんな荒川の人生の転機は、早大卒業を目前に控えた04年3月の世界選手権。「大学を卒業したら引退するつもりだった」という荒川にとって、最後となるはずの国際大会で、日本スケート史上3人目の優勝。情熱に再び灯がともった。2年後のトリノを見据え、現役続行を決めた。
世界女王として迎えた05年度シーズン。重圧もあってか、ケガやモチベーションの維持に苦しみ、世界選手権は9位。連覇はおろか、表彰台も逃す惨敗に、五輪でのメダル獲得に暗雲が立ちこめたかに思われた。それでも荒川にとってこの敗戦は、スケートに対する積極的な気持ちを取り戻す絶好の機会となった。「気持ちが吹っ切れた。このまま終わりたくない」-。
当時から層の厚さを誇っていた日本フィギュア女子勢だが、中でも柔軟な体を生かしたスケールの大きい荒川の滑りはまさに世界トップクラスで、「金を狙えるとすれば、荒川」というのが関係者の一致した見方だった。それだけに、五輪イヤーを前に、荒川の目の色が変わったことは、プレシーズンの何よりの収穫となった。
そして迎えた五輪シーズン。グランプリ(GP)シリーズや全日本選手権で優勝することはなかったが、そこで出た課題を、曲目を変更するなどして修正。五輪本番にしっかりとピークを合わせての勝利は、まさに集大成にふさわしいものだった。
トリノ五輪直後にアマチュアを引退した荒川だが、プロスケーターとしていまもリンクに上がる。その優雅な舞いに、現役復帰待望論も出ている…。=敬称略(謙)