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バレーボール・小島孝治


 1980年7月29日、モスクワ五輪の女子バレーボール決勝戦。ソ連対東ドイツ(ともに当時)の試合会場で全日本女子チーム監督、小島孝治は一人、試合の行方を見守っていた。決勝戦とはいえない不甲斐ない内容に、「(日本が)出場すれば優勝できた」と唇をかむも、同五輪へのボイコットを決めた日本は、その場に立つことすら叶わなかった。同五輪には、選手として脂の乗っていた男子マラソン・瀬古利彦や男子柔道・山下泰裕らが出場予定だったが、やはり東西冷戦という選手にはどうすることもできない国際情勢に翻弄され、涙をのんだ。小島も“犠牲者”の一人だった。
 関西大時代にバレーボールに打ち込んだ小島は卒業後、高校バレー界の強豪、四天王寺高(大阪府)の監督に就任。14年間で9回も同校を高校日本一に導いた実績を買われて65年、“東洋の魔女”が多く在籍していた日紡貝塚(現ユニチカ)の監督を大松博文監督から引き継いだ。当時、圧倒的な力を持っていた日紡貝塚の連勝記録を258まで伸ばしたが、259連勝目にヤシカに敗れ、王座を日立に奪われた時期もあった。だが、日本リーグV3をはじめ、ここでも結果を残し、70年、満を持して全日本の監督に就任した。
 小島は「拾ってつなぐバレー」を身上とし、練習中の厳しさは“鬼の大松以上の鬼”と表現されるほどのスパルタトレーニングだった。72年のミュンヘン五輪では、現地で練習を見学した女性に「選手虐待」で訴えられるという騒ぎもあったが、「彼らは日本の習慣を知らない。このくらいの練習は各競技団体でもやっていることで、誤解している」と意に介さなかった。練習を離れれば、選手達のよき父親として積極的に一緒に飯を食べ、毎年元旦には自宅で宴を開くなどコミュニケーションを図った。
 そのミュンヘン五輪はフルセットの末、ソ連に惜敗、銀メダルに終わった。小島は責任を取って一時は辞任したが、モスクワ五輪の前年の10月に全日本監督に再任。「悲願の金」に向けてまっしぐらに突き進んでいただけに、その矢先の「日本不参加」は衝撃が大きすぎた。個人参加の道も模索したが、実現しなかった。
 小島はその後も断続的ではあったが通算10年以上に渡り全日本監督を務めた。しかし、全日本女子に2度目の金メダルをもたらしたモントリオール五輪(76年)やロサンゼルス五輪(84年)では監督から外れており、ついに金メダルには縁のなかった。“悲運の将”、だが、大松、小島とつないだ“伝統”が礎になったことは想像に難くない。=敬称略(有)