次世代に伝えるスポーツ物語一覧

競泳・清川正二


 1932年(昭和7年)ロサンゼルス五輪で、日本五輪史上初の快挙が成し遂げられた。競泳男子百メートル背泳ぎで、清川正二、入江稔夫、河津憲太郎が表彰台を独占した。舞台となった決勝は、清川が25メートル付近でトップに立つと、そのまま自己ベストを1秒も短縮し、世界記録(当時)にわずか0秒4及ばないだけの1分8秒4でゴール。2位に入江、3位には河津が続き、まさに日本トリオの独壇場だった。
 19歳、名古屋高商(現名古屋大)に在学中の清川は「ピンとこなかった」というが、快挙を称える新聞をみて「『一夜あけたら有名になっていた』という英国の詩人バイロンの言葉を思い出した」とも。また快挙を実感したのは翌日、排日運動が激しさを増すロサンゼルスで、日ごろ肩身のせまい思いをしていた日本人学校の子供たちが、「日の丸をかついで大手を振って街を歩いた」と聞かされたときだったという。
 そしてこの金メダルは当時ならではともいえる美談をも生んだ。清川が兼松江商(現兼松)の上海勤務だった戦時下の44年(昭和19年)、貴金属などの供出に伴って、故郷の愛知県豊橋市に住む母親が金メダルを市役所に差し出した。だが、このとき応対した職員はこう言って受け取らなかったのだという。「私たちに勇気を与えてくれた大切なメダルです。書類上は供出したことにしますから、持ち帰ってください」
 清川はその後、36年ベルリン五輪でも同種目で銅メダルを獲得。第2次大戦直後から約7年間にわたって日本代表ヘッドコーチを務めた。また兼松江商社長のかたわらオリンピック・ムーブメントにも身を投じ、69年にIOC委員に就任。75年には理事となり、79年から4年間、IOC副会長も務めた。東西冷戦のなかでボイコットに揺れた80年モスクワ五輪では、IOC憲章に則って参加すべきだ、と日本のボイコットに反対する主張を展開した。99年4月13日、86歳で死去。ブランデージ、キラニン、サマランチと3代のIOC会長に接し、五輪が商業主義によって肥大化していく過程と向き合っただけに、行き過ぎた商業主義や五輪肥大化を危惧していたという。=敬称略(昌)